2006年11月29日水曜日

講演会について

連絡が遅くなっていますが、明日(30日)講義のテーマと関連のある講演会が行われますので、お知らせします。
    講師: 大田 静男 (郷土史家)
    演題: 日本人であることの意義はあるのか?
    日時: 11月30日(木)2:40〜4:10
    場所: 12号館1222教室
これは「法と社会I」という講義のゲスト講義です。

出席したことを証明するような感想文(600字程度)を提出してくれれば、新聞記事の課題の代わりとして受け取ります。なお、新聞記事の課題についてはここをクリックしてください。

2006年11月24日金曜日

Affirmative Action

久しぶりの投稿です。遅くなってすみませんでした。18日の講義は主に受講者からのメールの紹介と私からのコメントでした。見せようと思っていたaffirmative actionに関するビデオを見せる時間がなくなりました。メールに偏った講義はあまり面白くなかっただろうと心配していましたが、何人から「多くの学生からのコメントを読むことができてよかった」などの趣旨のメールをもらって、少し安心しました。取り上げたメールの中には「練習問題」に対する答案もありました。問題と答案がよくかみ合うことが大事なことを、今回も強調しました。

さて、今日はaffirmative actionの話が中心でした。先日のアメリカの中間選挙においてミシガン州でaffirmative actionを禁止する住民投票が可決されたこともあって、取り上げました。affirmative actionとは日本では耳慣れない言葉だと思いますが、発想が日本にまったく入ってきていないという訳ではありません。日本のWikipediaの中に「積極的差別是正措置」という項目にあるように、日本では「ポジティブ・アクション」という名前で似た方針の差別是正があります。

講義では十分説明できませんでしたが、「属性偏重」との関係について少しだけ補足したいと思います。1つの属性のみで判断する、あるいは1つの属性を重視過ぎることを「属性偏重」と呼んでいますが、今日のビデオ関連でいうなら、筆記試験のみで進路を決めることは「属性偏重」とも言えます。講義ではより複眼的なアプローチを勧めていますが、非差別少数者であることなども視野に入れた「OA入試」的な発想がもっと複眼的な発想ですね。

2006年11月10日金曜日

「差別」と「属性偏重」

学生から次のメールをもらいました。

外人という言葉は私たち日本人からみて異なる容姿をしている人達のことを一つの概念からみての呼称であり、私たちはその言葉に差別的な意味を決して含んではいないが、彼らからみると差別的な意味を含んでいるように捉えられてしまう。

「差別」という言葉を使っていますので、「差別」と講義で使っている「属性偏重」との関係について書きたいと思います。講義の中で「属性偏重」をキーワードにする理由の1つは「差別」より意味が明確な面があると思うからです。「差別」という言葉をよく耳にしますが、具体的に何が差別で、何が差別でないのかについて意外と総意がありません。「差別」は「悪い」という点についてはあまり異論はないと思いますが、具体的な問題になってくると「何が悪い」については意見が分かれることが多い。

属性偏重はより的を絞った概念だと思います。例えば「外人」の場合は「外国人」よりも「人種」を意識して使われることがあります。まさに学生が書いているように「日本人からみて異なる容姿」ですよね。「人種」や「容姿」は「国籍」と同じではありません。容姿では区別がつかないが、実は外国籍である場合もありますし、西洋人に見えても日本国籍の場合もあります。「属性偏重」という観点から「外人」について考える場合は、容姿にどの程度注目したいか、容姿はどの程度重要かについて考えることになると思います。「外人」が聞く人にとって不快かどうかだけではなく、容姿を重視するその概念を使用するかどうかは使用する人にとって大事な問題だと思います。言葉の問題の指摘を受けて、自分自身の頭の中にある概念を点検することは大事だと思います。口の動かし方や鳴り響く音そのものが重要ではありません。

さて、「外人」と「差別」との関係について二点を指摘したいと思います。

  1. 差別的な状況の中で「外人」という言葉が使われることが多い。


  2. 容姿を強く意識する概念を通して人を見ることが差別につながる恐れがある。

講義の中でこの二点についていろいろと解説しようと思っていますが、ここでは意味と使用法について大事な点を説明します。20世紀の前半に注目を浴びた哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「語の意味とは言語におけるその使用である」と主張しました。つまり、実際に言語の中で言葉がどう使われているかを見れば、その意味を確認することができます。個人的なレベルでは特定の発言の「真意」や「意図」について話し合うこともできますし、場合によっては語源についても考えなければなりませんが、一般的な「意味」は言葉の「使い方」が基本です。辞書に記録される「意味」は使い方に関する記録ですし、皆さんが知っているほとんどの言葉についても、使い方を知っているから「意味」がわかると言えます。そのような意味合いで、Googleを使って、「外人」と「外国人」で検索してみることを勧めています。

最後に、学生のメールに「私たちは」という言葉がありましたが、「私たち」の使用について考える必要があると思います。もう一人の学生からは次のメールがありました。

「外人」という言葉について、私は気づいた時から「外国人」と言っていた気がします。親か学校の先生から言われたのかは自分でも全く覚えていないのですが、ずっと小さい頃から「外人」と言ってはダメ、「外人」ではない、「外国人」という考えが頭にありました。

「私たち」日本人と思っていても、意外とそう思っていない日本人もいるかもしれません。これも一種の「属性偏重」でしょう。

2006年11月8日水曜日

テキストについて

シラバスを書いた段階で予定していたテキスト(姜信子著『ごく普通の在日韓国人』)が品切れとなったため、なだいなだ著の『民族という名の宗教—人をまとめる原理・排除する原理 』を秋学期のテキストにすることを講義の中で説明しました。先日、テキストが丸善に入荷したとの連絡を受けました。丸善によると、受講者と同じ冊数を入れると大幅に売れ残るので、受講者の約1/3にあたる120冊しか注文していません。早目に丸善で入手してください。後回しにするとテキストを入手できなくなるかも知れません。また、その結果、期末試験で合格点をとることができなくなる恐れがあります。