2007年12月20日木曜日

学内私書箱

たいへん遅くなりましたが、学内私書箱に秋学期に使ってきたパワーポイントのファイルを入れました。

経済学部 --> マスデン --> 比較文化論 --> 課題

のフォルダにあります。説明なしのパワーポイントファイルだけではたいへん分かりにくいだろうと思いますが、どのような話題があったかなどを確認するためには良いかと思います。

ギターの演奏を見せた訳

先週(12月13日)の授業の後に次のメールを受信しました。
ギターを独特な弾き方をしている黒人の男性のビデオがありましたが、確かに素晴らしいとは思いましたがそれだけで、何を感じとれば良いのか全然分かりませんでした。

次のような返事を書きました。
ギターの演奏を見せたきっかけは「外国人の役割」に関する講義でした。「外国人」という属性で「社会での役割」を予測でないことが多いことを説明しました。例えば、英語圏からの外国人が日本で英語教師になっても驚きませんが、外国人だからといって英語教師になるとは限りません。日本の伝統音楽の演奏家になったり、日本語で本を書く作家になったりするようなことがあります。その例としてBlue Noteの話をしました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88

アメリカのジャズを代表するこのレコード会社はドイツ出身のアルフレッド・ライオンによって創設されて、ライオンとドイツ時代からの親友で写真家のフランシス・ウルフがと一緒に運営しました。ドイツからの移民が、アメリカのジャズの発展に大きな貢献をすることはだれも予想できないようなことだったでしょう。しかし、さまざまな人間が自由に交流するようになると、こういうことが起きたりします。

「属性偏重」の概念との関連は、「何々人」だから、社会的な役割は当然「何々」と考えるようなことは属性偏重だと言えると思います。「何々人」という属性はそこまで決定的な意味を持たないということです。

さて、以上のような理由でBlue Noteの創設者の話をした後に、「おまけ」のような意味合いをかねて、Blue Noteで活躍した若い演奏者の一人、Stanley Jordanの演奏を聞かせました。ついでにブルーズの仕組みを説明しました。「属性偏重」だけを説明するならStanely Jordanの演奏を見せなくてもよかっただろうと思いますが、ジャズを楽しみながら「この音楽の発展にドイツからの移民が貢献していただなあ」とじっくり考える機会になるかと思いました。

なお、メールでは書きませんでしたが、「独特な弾き方をしている黒人の男性」という表現には少しだけ引っかかりました。果たして「黒人」に注目する理由があったのか、と思いました。

2007年12月13日木曜日

アメリカとサウジアラビアの関係について

長い間、ブログの更新ができず、申し訳ありませんでした。

今日は、先週見せた「華氏911」の関連で、アメリカとサウジアラビアの関係について書いた文章を紹介したいと思います。

アドレスは

http://groups.yahoo.co.jp/group/kokkeikan/message/162

です。読んでもらえれば、「華氏911」を見せた理由を更に深く理解できるだろうと思います。

2007年9月27日木曜日

他人のアイデンティティー認識について

ちょっと付き合っただけで、ましてや容姿だけで人のアイデンティティーを適切に理解することは不可能に近いと思います。

たとえば、学生からこういうコメントがありました。
自分自身を100%理解することは一生できないと思いました。

よくわかります。こう考えると一瞬で他人のアイデンティティーを見抜くことができるはずだと思うことはいかにおかしな発想かがわかりますね。

また、次のコメントもありました。
アイデンティティーは一生同じではなく、変化していくものかな??と自分なりに考えてみた。今日紙に自分のアイデンティティーを書いたが、来週も同じものをしたら、書いた中身は今日書いたものと変わっているのだろうか。

その通りだと思います。しかし、皮肉なことに、他人のアイデンティティーになると、ずっと変わらないものだと思い込む傾向があるように思います。

属性偏重と生まれた環境

メールで次の質問が届きました。
質問題なのですが、授業で「属性の重要性や意味をめぐっる摩擦が起きる」とあり摩擦が生じる要素として生まれた環境も大きくかかわりますか?

私の返事は次のとおりでした。
生まれた環境は、もちろん一種の摩擦の原因となりえます。例えば、関西生まれと関東生まれなら味付けなど、食べ物をめぐる摩擦はあるかもしれませんね。ただ、味付けを濃くするか、薄くするかをめぐる意見の違いだけだったら、私が言っている「アイデンティティー摩擦」というよりも、むしろ「文化摩擦」と言うべきでしょう。しかし、生まれた環境をめぐる「アイデンティティー摩擦」も起きるかもしれません。例えば、関東の会社に、関西生まれの人が入社したとしましょう。関西出身の新社員は他の新社員と同じように、普通に勤めているつもりなのに、「君の関西弁って漫才の話し方そっくり。なんか『おもろいこと』言ってみて」というふうに、絶えず彼が関西人であるということで特別視すれば、「アイデンティティー摩擦」と言えるでしょう。関西出身の新社員は関西弁などに関するコメントに違和感を感じなければ「アイデンティティー摩擦」とは言えないと思いますが、「なんでそんに関西のどうのこうのと言われなければならないのか。ほっておいて欲しい。」という思いがあるなら、やはり「アイデンティティー摩擦」ですね。この場合は講義で説明した「属性偏重」ということになります。

逆のような「アイデンティティー摩擦」もありうると思います。例えば、関西出身の女性が関東の男性と結婚して、関東で暮らしているとしましょう。夫が関東の味付けや料理を求めるばかりで、妻が関西風の料理を作るたんびにいやがったり食べなかったりするなら、関西出身の妻は怒るかもしれませんね。「私はある程度関東の味付けや料理を覚えて、夫の気持ちに配慮しようと思いますが、夫にも関西の文化などに対してもっと関心を持ってほしい」と思うでしょう。自分自身が大事に思っている「関西」を無視されたり、価値のないものとして軽視されたりしたらいやがるでしょう。別のいい方をすれば、「自分が関西出身の人間であるということを理解して、もっと配慮ほしい」というような思いになると思います。これは一種の「アイデンティティー摩擦」にはなりますが、「属性偏重」ではなく「属性軽視」ということになると思います。(このいうな表現は特に決まっている訳ではありませんが、あえて言うならこのような表現がいいのではないかと思います。)

2007年7月18日水曜日

試験について

下記のメールを最近私にメールを送ってくれたすべての受講生に送ります。

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このメールを最近私にメールを送ってくれたすべての受講生に送っています。

一人一人のメールに十分に答えることができないですみません。採点の段階で必ずメールを読み直して、評価に入れます。私が答えられなかった質問があった場合もそのことを考慮します。

このメールをブログで公開しています。長過ぎて、ケイタイなどで読むことができない場合はブログで見てほしいと思います。

春学期には思うようにこのブログを更新できませんでした。ブログやメールでの受講生の皆さんに対するサーピスを私が十分できなかったことを試験を採点する際考慮しますが、できるだけ自力でいい点が取れるように頑張ってもらいたいと思います。

さて、講義などでも説明しているように、試験の問題は試験に関する第一部とテキスト(『タテ社会の人間関係』)に関する第二部という構成になっています。第一部では6つほどの問題のなかから3つを選ぶことになります。それぞれは20点満点ですので、前半は60点の配点です。後半は40点で、全体で100点満点です。

マメに授業に出席し、普段からノートをとり、私にメールで要約などを送っているなら十分点がとれると思います。最後の講義でいい忘れたのですが、以前言っていたように、問題の文言と回答がよくかみ合うようにすることを心がけてほしいと思います。例えば、「何々を書いた上で」という言葉が問題にあれば、その「何々」を先に書いてくださいね。あるいは「何々を説明してください」とあれば、数語のメモ程度では足りないでしょう。講義を聞いていない第三者でも、回答を読むだけで意味が十分に伝わるようにしてください。

欠席した講義内容を確認したい場合には、今までのスライドなどを学内私書箱で見ることができます。ただ、普段から講義に出席している場合は、自分自身の講義ノートなどを見直すだけでいいだろうと思います。

後半の『タテ社会の人間関係』について3点に気をつけてほしいと思います。

1. 先日の講義で私が言ったことだけを書いて終わりにしようとしないことです。本を読んでいることを示して欲しいと思いますので、本の内容を具体的に例示していくことが重要です。

2. 講義は本に出てくる「場」と「資格」の概念と本のなかで紹介される例(習慣、慣行、行動パターン、伝統など)との関係について考えながら読む(あるいは読み直す)ことです。「日本人は何々」や「インド人は何々」という結論だけでなく、それは中根氏が言う「場」や「資格」はどういう関係があるかを説明できるようにしてほしいと思います。

3. 詳しく書くこと。ごく短い回答の評価は低くなります。

頑張ってください。

マスデン

2007年6月28日木曜日

メールなどについて

今日、下記のメールをここ数週間の間に私にメールを送ってくれたすべての学生に送りました。

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こんにちは!

私の努力不足で比較文化論を履修している皆さんからのメールがたまってしまい、なかなか皆さん一人一人に対するメールが追いつかない状態です。メールを確実に受信していることが確認できるようにこのメールをお送りしています。また、成績評定の段階で皆さんからのメールを見て、その量と内容を考慮して成績評定を行うことを改めて約束します。

なお、一人一人への注意をすることができておりませんが、よくある問題をここで紹介したいと思います。この文章をブログにも載せますので、ケイタイで全部受信できない、あるいはケイタイで長い文を読みたくない人はブログを見てください。

目次

1. 学籍番号や名前の書き忘れ
2. 件名に「比較文化論」
3. メールの保存
4. 短いコメントや感想
5. テキスト
6. 課題
7. 試験

1. 学籍番号や名前の書き忘れ

通常、ケイタイでメールのやりとりをする場合は名前を省略することが多いと思います。登録されているアドレスであれば、自動的に表示されるからでしょう。ただ、パソコンのメールソフトの仕組みが違うことが多いです。少なくとも、私が使っているメールソフトの場合は、毎回学籍番号とお名前を入力してもらわなければ、せっかく送ってもらったメールを評価できなくなることがあります。成績評定をする際に、皆さんからのメールを学籍番号で検索します。当然、学籍番号がなければメールが見つかりません。書き忘れた場合に、後で学籍番号とお名前だけを送ってくれる人がいますが、この場合には検索して出てくるのは学籍番号の入ったメールのみですので、私が元のメールを探すことになります。数百人からたくさんのメールをもらっていますので、一人一人のためにはそこまではできません。お名前、学籍番号、要約と感想を全部一通のメールにしてくれなければ、評価できなくなります。書き忘れた場合にはまとめ直して送ってください。

2. 件名に「比較文化論」

ケイタイでは件名を省略することが多いようです。しかし、多くのメールをもらっている私の場合はメールを振り分けて管理する必要があります。皆さんが件名を省略すると私の仕事が増えますので、ぜひ協力していただきたいと思います。

3. メールの保存

まめに講義の要約などを書いてくれていれば、期末試験の予習をする段階で大変役に立つと思います。必ず保存してください。ケイタイで保存するよりも、私に一通を送ると同時に、自分自身のパソコンのアドレスにも一通を送ると良いのではないかと思います。このように保存しながら送信した場合には、後からすべてのメールに学籍番号を書いているかどうかなどもチェックできます。学籍番号がない場合は、だいぶ時間が経ってしまっていても「1. 学籍番号や名前の書き忘れ
」で書いたような要領で送り直しください。

4. 短いコメントや感想

メールがないことよりも、短くてもある方がいいのですが、やはりきちんとした要約がいいです。毎回、講義のそれぞれの部分の趣旨や主なポイントなどを要約してメールで送ってくれている場合には、万が一試験の結果が悪くても、「毎回ちゃんと聞いていたのに」ということがわかりますので、思いっきり成績を修正することができます。しかし、断片的なコメントだけだと、そこまでのことがわかりませんので、大きな修正はできないと思います。また、ほとんどの場合、丁寧に要約してくれている学生は期末試験でいい点をとりますので、「試験の準備」と「万が一のための保険」という意味で、きちんと書いてほしいと思います。

5. テキスト

期末試験までには必ず『タテ社会の人間関係』を読む必要があります。まだ手に入れていなければ早急に丸善で購入してください。

6. 課題

HPでも説明しているように、課題の締切は来週の7月5日が締切です。遅れないように注意してください。早目に研究棟受付で提出してもいいです。「マスデン先生のポックスに入れてください」というだけでいいです。

7. 試験

授業で繰り返し言っているように、期末試験を7月19日(木)に行います。通常の試験期間には行いません。どうしても7月19日(木)に試験を受けられない正当な理由が教務課によって認められない場合は追試を受ける権利はありませんので、注意してください。

マスデン

2007年5月17日木曜日

English Conversation

最近、留学生などと英会話ができる時間が設けられたそうです。

  曜日:月曜日から金曜日までの平日
  時間:4:30から5:30まで
  場所:1号館の国際交流センターの近くの部屋
     (国際交流センターで聞いてください)

だれでも自由に参加できるそうです。

戦争と国内暴力の関係

メールに次の質問がありました。
ブログを読むことで講義でわかりづらかった部分も理解することができました。アメリカの銃社会の背景がわかりよかったです。もしアメリカが憲法やアイゼンハワーの警告をちゃんと聞いていたら現在のアメリカは銃による殺人は少なかったのか?そこをもう少し知りたいです。

次の返事を書きました。
ブログを読んでくれていますね。ありがとうございました。最後のご質問は難しいです。アイゼンハワーは銃規制を求めていたのではなく、軍産複合体の監視を呼びかけていました。この警告通りに多くのアメリカが警戒をしていれば、イラク戦争はなかっただろうと思います。しかし、銃による犯罪になると、「海外での暴力による国内での暴力への影響」ということになります。影響があるという説がありますが、立証がむずかしいです。

外交政策において「物事を暴力で解決する」という発想が社会で広く認められるようになれば、国内でも同様の発想を行動に移す人が増えるだろうと考えられますが、上で書いたように因果関係を示すのはむずかしいです。「タクシードライバー」(1976)という名画では、ベトナム戦争から帰ってきた元海兵隊のタクシー運転手がアメリカ国内でも暴力に向かっていく姿を描いています。元軍人の帰国後の暴力(特に家庭内暴力)の場合は統計上の関係は確認できるだろうと思いますが、社会全体(特に直接的に海外で戦争を体験していない人の暴力)については因果関係の立証は大変困難です。

2007年5月12日土曜日

銃社会の背景

4月19日の講義後にもらった複数の受講生からのメールの中に「そもそも銃の所有には何のメリットがあるか?」という疑問がありました。「どうしてアメリカで銃所持が許されているか?」のような問いに答えるなら、まず銃所持の権利を保障するアメリカ国憲法の修正第二条から説明しなければなりません。修正第二条は次のとおり:
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。

後半では銃所持の権利を明記しているだけですが、肝心な理由は前半に書いてあります:民兵が必要だから。ただ、これは現在のアメリカの現状では理解に苦しむ理由なんですね。現在のアメリカでは国家の安全を「民兵」のような素人集団に託している訳ではなく、異常なほどに発達したプロの軍隊が国家や「国家の利益」を守ることになっています。

憲法制定当時のアメリカには常備軍がなく、農民や町の市民で組織する「民兵」に頼っていたことが修正第二条の背景にあります。もう1つ重要なのは、常備軍がなかったというよりも、常備軍に対する不信感があって、むしろ市民で構成する民兵がいいと考えられていたということです。

常備軍に対する不信感は、建国の精神や理念とよく合致します。当時、軍であろうが、大統領やその側近であろうが、一カ所に力が集中してしまうことは民主主義を脅かすと考えていました。力が集中しやすい常備軍は民主主義国家にはふさわしくなく、それぞれの地方の民兵に頼る方が望ましいとの価値観が修正第二条の背後にあります。

簡単にまとめると修正第二条の趣旨は次のようになります:(常備軍を持たない我が国では)民兵が必要。民兵が機能するためには市民(国民)が武器を所有する必要があるから、政府が市民から武器を取り上げてしまうようなことがあってはならない。憲法に「常備軍を持たない我が国では」とは書いていませんが、常備軍がないことが修正第二条の前提になっています。

さて、修正第二条が制定された当時の趣旨はだいたい以上の通りですが、そもそも建国の父たちはなぜ常備軍より、民兵の方が望ましいと考えていたをもう少し説明する必要があるでしょう。今の世の中では「民兵」というと非常に古くさい、非現実的な感じがするように思います。建国の父たちは、素人集団の「民兵」がプロの常備軍よりいいと考えていたと聞いただけで多くの受講生にはぴんと来ないだろうと思います。そこで約170年後のアイゼンハワーの演説を取り上げることにしました。1961年の離任演説のなかで、アイゼンハワーは「軍産複合体」を警戒する必要があることを指摘しました。「軍産複合体」は「常備軍 + 軍需産業」のことですが、発想は建国の父たちと同じです。民主主義のなかでは、なんと言っても「民意」が重要ですが、軍や軍需産業が発達しすぎると、国の政策は「民意」ではなく「軍意」(軍産複合体に関わっている連中がやりたがっていること)で決まってしまう恐れがあるということです。

今までの経緯を大雑把にまとめると、建国の父たちは「常備軍は危ないから、民兵でいこう」と考え、1961年にアイゼンハワーは「民兵をやめて、常備軍にせざるを得なくなってきたけども、軍産複合体の影響力が増してきて、危なくなってきているよ」と警告して、そして今、アイゼンハワーが恐れたように、「軍産複合体」が国策決定へ過大な影響を及ぼした結果、毎日ニュースで見るイラクの惨事があります。

こうして考えると「常備軍ではなく、民兵で行こう」と考えた建国の父たちはなかなか賢かったかも知れないという気がしてきませんか?今の世の中では「民兵」は非現実的な感じがするかも知れませんが、授業で紹介したようにスイスはそれに近い形を堅持しています。しかも、銃は単なる「趣味」ではなく、市民が国を守る道具として、責任を持って家で保管するスイスでは銃による犯罪がアメリカよりずっと低い。

たいへん長くなりましたが、このエッセーを通じて言いたいことは、修正第二条の背後にはばかにできない思想と知恵があるということです。巨大な軍を持つ現在のアメリカでの銃所持の意味が変わってしまい、さまざまの問題が起きていますが、制定当初の思想(常備軍を持たずに、民兵で行こう)を堅持すれば、今のアメリカはずっとマシではないかと思います。

2007年5月1日火曜日

4月26日の講義

さきほど4月26日の講義に使ったパワーポイントファイルを学内私書箱に入れました。

講義では銃社会としてのアメリカの歴史的背景について話した後に、マイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」の一部を見せました。メールのほとんどはこのドキュメンタリーをめぐる感想でした。ドキュメンタリーが講義より面白いのはよくわかりますが、講義内容の要約であるはずのメールが、講義そのものを省略して、ビデオやDVDに関する感想のみになってしまうと、好ましいことではないと思います。また、ムーアのドキュメンタリーのインパクトが強すぎて、皮肉のことに、DVDを通じて「メディアの問題」を理解したと書いて学生の多くは、ムーアの言い分を鵜呑みにしていたようです。

次回の講義で、前回あまりよく伝わらなかった内容を改めて説明してから、ムーアのドキュメンタリーの中のカナダに関する部分を引き合いにしながら、メディアとの付き合い方について考えていきたいと思います。

2007年4月21日土曜日

文化の定義について

受講生の皆さんとのメールのやりとりや講義の準備で、いろいろと考えさせられています。ここで文化の定義について考えていることを説明してみたいと思います。やや長い文章にはなりますが、読んでくれれば講義のキーワードである「文化」に対する理解が深まるだろうと思いますので、是非、読み続けてください。

今まで話してきたように、講義で使っている文化の定義(ある程度共有された必然性のない当たり前)は私自身が考えたもので、講義の目標(いい人間関係を作っていく上で役に立つこと)と深い関係があります。改めてここで説明しますと、文化の定義の中心となるのは「当たり前」という言葉です。通常「当たり前」や「当然」とされることについては考える必要はありません。しかし、その「当たり前」とされていることには必然性がないなら、違う「当たり前」を持っている人間に出会っても不思議ではありません。その人間といい人間関係を作っていこうと思うなら、不毛な「当たり前」のぶつかり合いや摩擦を避けたいものですね。自分の「当たり前」には必然性がないかも知れないと、臨機応変に考え直してみる気持ちや思考的柔軟性があれば、摩擦を回避して、より良い人間関係が作られるだろうということです。そういうわけで自分の当たり前の「必然性のなさ」を認識することが重要です。

以上のように、授業における私の目標と文化の定義との間に重要な関係があるだけでなく、そもそも「必然性のない当たり前」という形で文化を定義してみたのは、目標を達成する上で都合がいいと思ったからです。文化人類学などにおいて定評のあるような文化の定義を講義で使用しないで、あえて自己流の定義を提示してきたのは、異文化理解(いい人間関係)の天敵である「固定観念」や「ステレオタイプ」(いずれも思考停止が特徴)の退治には有効だろうと考えたからです。今もその考え方には変わりはありませんが、最近アメリカにおける銃規制問題等について考えているうちに、「必然性のない当たり前」という定義の仕方の弱点が少し気になりました。

簡単にいうと、「必然性のない当たり前」は文化人類学で使われてきた定義より範囲が狭いという問題があります。よくよく考えてみれば、常識的に「文化」だと考えられてきたような事柄の中に、単なる「当たり前」と言えない慣習があります。例えば、箸は日本の食文化の一部であることについては異論はないだろうと思いますが、現代の日本人がナイフとフークにも慣れて、箸だけが「当たり前」ではないでしょう。文化とは「必然性のない当たり前」という定義にこだわるなら、ナイフとフークなど、別の食器を使うこともあり得ることが広く理解されているということで、もはや箸が「文化」でなくなった、という理屈が成り立ちます。私はもちろんそのような結論を意図している訳ではありませんが、自分の定義を厳密に解釈するとそういうことになってしまうという論理的な弱点があることを認めざるを得ません。

文化人類学という学問で有名な定義としてエドワード・タイラー(1832-1917)の次の定義があります。
「文化あるいは文明とは・・社会の成員としての人間(man)によって獲得された知識、信条、芸術、法、道徳、慣習や、他のいろいろな能力や気質(habits)を含む複雑な総体である」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/050228ty.html

この定義に対する批判がない訳ではありませんが、だいたい文化的な現象をほぼ網羅していると思います。また、「複雑な総体」という言葉で、文化的な現象は複雑に絡み合うことが多いことを教えてくれていると思います。私の文化の定義は網羅的なものでもなければ、文化的な現象の総体としての関係を意識させるものでもありません。ただ、タイラーの定義よりは思考停止の弊害を意識させるメリットがあるのではないかと考えています。

銃規制問題の授業と皆さんからのメールが、改めて文化の定義の仕方について考え込むきっかけになった理由を説明したいと思います。それは、今のアメリカの銃社会を理解するには文化的な背景等を理解する必要がありますが、銃所持が多くのアメリカ人には単なる「当たり前」と考えられている訳ではないということに気づいたからです。前回の授業で説明したように、アメリカ国内の世論が分かれています。銃社会の弊害に関する議論がいろいろあるので、多くのアメリカはある程度考えた上で自分の立場を決めています。銃社会に対する批判や抗議等がなければ、現状は多くの人にとって単なる「当たり前」ということになるでしょうが、社会の中で意見が対立している状況の中て規制賛成派も反対派も、自分の立場に対する批判を意識させられています。「アメリカ文化と銃社会」の全体像を理解するには「必然性のない当たり前」より、タイラーの定義にあるような「複雑な総体」という観点で考えると良いでしょう。

アメリカの銃社会の文化的な背景について、授業で考えてみたいと思います。以上説明したような理由で、単なる「当たり前」では片付けられない、より広い意味での文化的背景についても説明しなければなりません。しかし、これからも「必然性のない当たり前」という定義には「思考停止」と戦うためにはメリットがあると思っていますので、是非皆さんに覚えてもらい、その趣旨を理解していただきたいと思います。

2007年4月20日金曜日

学内私書箱

昨夜、19日の講義で使ったパワーポイントのファイルを学内私書箱に入れました。講義の直後に入れるのが一番いいと思いますが、急ぎの用事がある時は遅れることがあると思います。今後は遅くとも講義の翌日までには入れたいと思っています。

なお、前もって学内私書箱にファイルを入れません。1つの理由は講義ぎりぎりまで新しい内容などを準備することが多く、前もって入れる余裕がないからです。もう1つの理由は、学内私書箱に入れるファイルを講義内容の記録として残したいからです。講義終了後、説明できなかったスライドなどを次回に回し、その日のファイルから削除します。皆さんが学内私書箱で見るスライドはすべてその日に実際に使ったもののみとなります。

学内私書箱で講義の流れなどを再確認できますので、ときどき見てほしいと思います。

2007年4月19日木曜日

教科書

教室変更のメッセージの中で、丸善から「教科書完売」の知らせがあったと書きました。丸善は追加分を注文し、10日ほどで入荷するそうです。丸善は毎年、登録人数と同じ数の本を入れるのではなく、去年の実績などを考慮して入れる本の数を決めるそうです。追加分の本が入荷してからすぐに購入するか、あるいは万が一追加分も完売した場合には早い段階で注文すれば、十分間に合います。この講義の前半にはテキストに触れることはありませんので、本が手に入るのが少し遅くなってもかまいませんが、試験までに必ず読まないといけないので、早目に購入しないと、後でとても困るだろうと思います。

2007年4月18日水曜日

急告:教室変更

明日、4月18日より345教室で講義をします。「様子を見る」と書いたばかりですが、今日、丸善から「教科書完売」の連絡が入り、心配になりました。教務課で調べてもらったところ、363名の履修者がいることがわかりました。授業内容に興味を持っている人が多いならたいへんうれしいことですが、軽い気持ちで履修届けを出した人が多いなら困ります。特に、人数が多くなると私語や遅刻などで、不真面目な人が真面目に受けたいと思っている人に迷惑をかけることが多くなるのではないかと心配しています。真面目に受けたい人には是非毎回講義に来てほしいと思いますが、逆に、講義の趣旨を理解しようとしないで、他の学生に迷惑をかけながら受講するような学生には早目にこの科目の単位をあきらめてもらいたいと思います。試験は論述形式、参照不可で、講義内容のみならずテキスト関連の問題がでますし、それとは別に課題(今年は去年よりも明確な基準で採点する)がありますので、けっして「楽勝」ではないと思います。実際、去年の春学期の記録を見れば、履修登録をした学生のうち、約半数は「D」あるいは「/」(期末試験欠席)の評価でした。私語も許される「楽勝」科目だと勘違いして履修登録をした人がいるなら、気持ちを入れ替えて真面目に受けるか、それとも潔く単位を断念するかのいずれにしてほしいと思います。よろしくお願いします。

このブログをメールで受信するには

1月22日にこのブログで書いたように、ここブログへの更新があった場合、今後その内容を携帯やパソコンのメールで受信できます。「詳しくはhttp://groups.yahoo.co.jp/group/hikakubunkaron/を見てください」と書きましたが、そのページを見ただけでは手続きはややわかりにくいと思いますので、ここで説明したいと思います。

受信には2つの方法があります。1つにはYahoo!JapanのIDが必要です。既にYahoo!Japanでメールなどをやっていれば、Yahoo!JapanのIDがありますので、ログインをして、参加手続き(つまり、メールでブログ内容を受信する手続き)を画面上で行うことができなす。ただし、この場合は携帯ではなく、バソコンへのメール配信になるだろうと思います。

もう1つの方法は

hikakubunkaron-subscribe@yahoogroups.jp

へ空のメール(件名もメッセージも不要)を送ることです。この場合は携帯からでもいいと思います。このアドレスへ空のメールを送ると次のメッセージが送られてきます。
こんにちは、Yahoo!グループです。

[hikakubunkaron]グループへの参加申し込みをいただきました。
まだ、グループへの参加手続きは完了していません。

■このグループに参加するには
このメールにこのまま返信してください。手続きが完了します。

■参加を取り消したい
このメールを無視してください。手続きはキャンセルされます。
※このメールにお心当たりのない場合はそのまま削除してください。
 コンピュータウイルスの影響で、あなたのメールアドレスが詐称されていた
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■[hikakubunkaron]グループ
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グループの説明、過去に投稿されたメッセージの閲覧などができます。

■[hikakubunkaron]グループについてのお問い合わせ
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※このメールに質問をご返信いただいても回答いたしかねます。
 お問い合わせはヘルプページからお願いします。

書いてあるように「メールにこのまま返信してください。手続きが完了します」。

ブログ更新の知らせをメールでの受信をやめたい場合は同様に空のメールを

hikakubunkaron-unsubscribe@yahoogroups.jp

に送ればいいです。

今回の補足説明は以上です。どうぞ、参加登録をしてみてください。

2007年4月17日火曜日

4月12日の講義

最初の講義にたくさんの学生に来てもらったのはうれしかったのですが、全員がすわれなかったのは残念でした。講義の後に教務課でもう少し大きな部屋はないかと聞きましたが、なかなかいい部屋がありませんでした。もう少し様子を見たいと思います。当分の間は少しだけ早目に来てもらえればきっと席が見つかると思います。

授業が終わってからたくさんのメールをもらいました。現時点で107通です。積極的に授業に参加してくれて、ありがとうございます。メールが私の思考を刺激してくれて、19日の講義に向けて去年とは少し違う講義内容を準備することができました。前回説明した「講義の目標」と「文化の定義」の関係が主なテーマとなります。興味を持ってもらえように工夫したつもりですし、期末試験の準備にもなりますので、是非出席してほしいと思います。

前回の講義で内閣府青年国際交流事業参加青年募集を紹介しました。興味のある人に次のリンクをクリックしてもらえれば幸いです。

http://www8.cao.go.jp/youth/bosyu.html

最後になりますが、学園大の留学制度に応募することも勧めました。少しでも興味があれば、「募集要項&スケジュール」を見てください。アドレスは

長期
http://www.kumagaku.ac.jp/office/kokko/choki-yoko.htm


短期
http://www.kumagaku.ac.jp/office/kokko/tanki/tanki-yoko.htm

です。短期についてはまだ去年の情報しかありませんが、多少参考になると思います。

2007年4月12日木曜日

授業評価

今日から、いよいよ新学期がやってきました。今年頑張って、去年以上に受講生の皆さんに納得してもらえるような講義をしたいと思っています。よろしくお願いします。

さて、去年の授業評価でもらった意見を今年の出発点にしたいと思います。「自由記述」では肯定的な意見が多かったことはたいへんうれしく思います。

問題点を指摘する学生さんの意見もたいへん参考になりました。複数の学生が「時間配分」の問題を指摘しました。特に、「メールの表示が多かったので、1回分の授業で学ぶ部分が少なくなっている」という指摘はよくわかります。今年も受講生からのメールを匿名で紹介し、前回の講義内容を補いたいと思いますが、その比重が大きくなりすぎないように心がけます。コメントや補足を受講生の皆さんに紹介したいが、講義時間が足りないと判断した場合はこのブログで補足説明をしますので、ときどき見てください。

2007年1月25日木曜日

テキストに関する質問

今日、メールでテキストに関する質問が届きました。
『民族という名の宗教』を読み終えました。全て読み、自分なりに考えてみたけれど、どうしてもわからないことがありましたのでメールしました。

P.137の柳田国男氏の言葉で、
「近代化する社会が捨てていくものを、今のうちに急いで拾い集めていかねばならぬ。さもないと完全に失われてしまう」という部分。

P.207のなだ氏の言葉で、
「社会主義国家は、今、われ先にと社会主義を放り出している。ぼくはそのときになってへそ曲がりから、人の捨てるものを拾ってみる気になった。そして、人をまとめる原理の中で社会主義が、抑制された人々、絶望した人々の心の中で、どのような位置を占めていたのか見てみようと思った。」

この2人の“拾っていくもの”というのは、この本の中で同じものを指しているのでしょうか。それとも別々のものを指しているのでしょうか。また、それが一体何を指しているのか、一体どのようなことなのか読み返してもわかりませんでした。

私からの返事:
同じという解釈も成り立つし、違うとも言えると思います。時代遅れとして捨てられていく習慣や考え方の価値を見直すという意味では同じですね。でも、なだ氏が「拾う」場合の価値観や発想が柳田国男氏の場合と違うだろうし、本の最後の方になだ氏が書いた社会主義を「拾う」内容につなげていくために柳田国男の言葉を移用した訳ではないだろうと思います。137ベージの内容も207ページの内容もなだ氏が本全体を通して言おうとしていたと関連があったと思いますが、「拾う」という表現がこと二カ所で使われていることはむしろ偶然かもしれません。

「拾う」ことの意味についてですが、柳田国男氏の場合、「拾っていた」のは日本のあっちこっちで廃れていく伝統のことでした。近代化でいろいろな伝統が途絶えた訳ですよね。例えば、近代的な工場で傘を作ることが普通になれば、伝統的な手法で作る蛇の目傘があまり売れなくなって、場合によってはその代々続いてきた伝統がなくなるようなことがあっても不思議ではないですよね。柳田国男氏が別に蛇の目傘のことを記録していた訳ではないだろうが、似たように近代的な慣行などとの競争に負けて、廃れていく、捨てられていく習慣、慣行などを記録していたと思います。

以上、十分な答えができたかどうかはわかりませんが、こういう質問が届いたのはうれしいことです。この学生は明日の試験でいい点が取れるだろうと思います。

2007年1月22日月曜日

ブログへの投稿をメールでも受信できます

このブログへの更新があった場合、今後その内容を携帯やパソコンのメールで受信できます。詳しくはhttp://groups.yahoo.co.jp/group/hikakubunkaron/を見てください。ただし、リンク情報などが削除されるので、重要と思われる内容についてはこのブログを直接確認してください。

テキストの内容について

学生から下記のメールが届きました。
今テキストを読み終えました。線を引きながら読みましたがところどころ分かりにくいところもありました。私が歴史背景や言葉に疎いせいだと思いますが…。テキストの中で授業の内容と重なるところも多くありました。自分なりにテキストの内容をまとめようと思っていますが、全体を通してまとめようとすると難しいです。

確かに、全体をまとめるのは難しいと思います。いろいろなまとめ方があり得るからこそいい意味で「考え込む」ことになるかと思います。最終的に私から見て「正しい」まとめ方になっているかどうかよりも本をよく読んで内容について考えたかどうかが採点のポイントになります。答案の中でなだいなだ氏が書いたことを具体的に取り上げてそれについて考えたことを書いてください。エッセーとしてうまくまとめてあることはもちろん望ましいですが、「読んで考えた」ことを文で示すことがもっと重要です。

また、「ところどころ分かりにくいところ」があってと書いてありますが、具体的な質問があれば、このブロクへ質問等を投稿しませんか?メールで質問を受けてもいいのですが、できるだけブログを使って他の学生も見られるようにしたいと思います。

一人の学生から次のメールがありました。
今日の講義で先生が、「人種は科学的なものではなく、社会現象から生まれたものである」とおっしゃったことが大変印象に残りました。「民族という名の宗教」を読んでいる最中ですが、民族と人種についてかなり混乱している状態なので、自分なりに答えを導き出せるように頑張りたいと思います。

質問という形ではありませんが、「民族と人種についてかなり混乱している」とありましたので、次のような解説を書いて送りました。
「人種」(race) と「民族」(ethnicity)は、前者が先天的、後者が後天的という形で区別されることがあります。つまり、「人種」(race) が生まれる前に決まる遺伝と関連のある概念であるに対して、「民族」(ethnicity)は文化など、生まれた後に学習したことと関連のある概念ということで、この二つを区別して使うことがあります。しかし、日本語の中で「民族」という言葉がどのように使われるかを調べてみれば、先天的な意味で使われることもあれば、後天的に使われることもあります。概念が人間の先天的な特徴を指しているつもりで使われても、後天的な文化を指すつもりで使われても、人間が作った概念であって、いわゆるはっきりとして科学的な根拠がないことには変わりがありません。そう考えると「民族」と「人種」を区別して使う必要はないかも知れません。両方とも科学的な概念というよりも「通念」や「信仰」としての側面が重要かも知れません。

十分な答えができるかどうかはわかりませんが、何かありましたらこのブログに投稿するか、あるいはメールを私に送ってください。待っています!

テキストの入手方法について

最後の講義の直後に、丸善で売っていたテキストは完売したようです。去年の講義においてもこのブログにおいても、早目に入手するように繰り返し言いましたが、入手しなかった人は試験の準備ができなく、困っていると思います。そこで、テキストを読み終わって、譲ってもいいという人がいれば、私は数冊分を定価で買い、入手できなくて困っている学生に売ります。(書き込みなどがあっても定価で買います。)読み終わったテキストを譲ってもいい人はメールで連絡してください。

なお、アマゾンのサイトを見てみたところ、今日インターネット上で注文すれば、明日届けてくれるそうです。場合によってはコンビニで受け取ることもできると思います。

2007年1月12日金曜日

期末試験について

期末試験に次の問題があります。
『民族という名の宗教』において著者のなだいなだ氏が一番言おうとしていることは何かについて、本の内容を例示しながら、できるだけ詳しく(裏面も必ず使うこと)考察してください。(配点=40点)

本をきちんと読んでいることを十分に示しながら、論理的に、上記の問題によくかみ合うように書いてください。

講義に関する問題について既に講義で例などを示しています。

すべて参照不可です。頑張ってください。

2007年1月9日火曜日

レイシャルプロファイリング関連

次のメールを学生からいただきました。
講義で警視庁の犯罪者のデータのグラフがあり、警視庁のデータでは外国人と一まとめにされていましたが、それは日本が島国だったことにより他の国と関わる機会が少なかったからなのでしょうか。またアメリカ等ではそのようなデータを取る場合は人種などで分けられているのでしょうか。もし仮に人種で区分されているのであれば、レイシャルプロファイリングの原因の一つになるような気がしました。

私からの返事を概ね次のようのものでした。

メール、ありがとうございました。まず、アメリカなどでのデータの取り方について書きたいと思います。

警察がだれに対して職務質問等をするかを決める際に、人種等を考慮することはracial profilingと判断されます。ただ、アメリカでは、犯罪を含めて人種や国籍関連の統計を集めたりすることは通常racial profilingなどと考えられていません。逆にフランスでは人種等に関する統計を集めること自体は差別的な行為、あるいは差別につながるとして禁止されています。正に、フランスでは※※さんが書いたように「人種で区分されているのであれば、レイシャルプロファイリングの原因」になると考えられてきました。しかし、2005年の秋にフランスで貧しい移民による暴動が多発するようになり、この政策が多少問題視されるようになりました。暴動から半年後にHarry Roselmackというアフリカ系ジャーナリストがフランスの人気ニュース番組のキャスターとして起用されました。人種に関する統計すら集められないフランスではaffirmative actionは禁止されていますが、Roselmack氏の皮膚の色と彼の採用は無関係ではないようです。

さて、アメリカ政府などの人種と犯罪関連の統計を

http://www.ojp.usdoj.gov/bjs/


で見てみました。このサイトに載っている図の例をいくつか講義で紹介したいと思います。人種と犯罪関連の統計は発表されていますが、犯罪別にそれぞれの人種は何人捕まっているかなどというようなまとめ方は見当たりませんでした。

因に、人種と犯罪ではなく、移民と犯罪については、ハーバード大学のRobert J. Sampsonなどはアメリカにおいて、移民はむしろ犯罪率の低下につながるという研究結果を発表しています。このような現象は日本でも見られるかどうかとわかりませんが、「移民=犯罪増加」とは限らないという点では興味深いと思います。

マスデン

追伸 「日本が島国だから」というような説明にはあまり今がないと思います。イギリスは島国ですが、移民等に関する日本との相違点が多い。「日本が島国だから」というのは今の状況を理解することにはあまりつながらないと思います。むしろ「島国だから」ということで現状を正当化する形で使われることが多いと思います。