2007年9月27日木曜日

他人のアイデンティティー認識について

ちょっと付き合っただけで、ましてや容姿だけで人のアイデンティティーを適切に理解することは不可能に近いと思います。

たとえば、学生からこういうコメントがありました。
自分自身を100%理解することは一生できないと思いました。

よくわかります。こう考えると一瞬で他人のアイデンティティーを見抜くことができるはずだと思うことはいかにおかしな発想かがわかりますね。

また、次のコメントもありました。
アイデンティティーは一生同じではなく、変化していくものかな??と自分なりに考えてみた。今日紙に自分のアイデンティティーを書いたが、来週も同じものをしたら、書いた中身は今日書いたものと変わっているのだろうか。

その通りだと思います。しかし、皮肉なことに、他人のアイデンティティーになると、ずっと変わらないものだと思い込む傾向があるように思います。

属性偏重と生まれた環境

メールで次の質問が届きました。
質問題なのですが、授業で「属性の重要性や意味をめぐっる摩擦が起きる」とあり摩擦が生じる要素として生まれた環境も大きくかかわりますか?

私の返事は次のとおりでした。
生まれた環境は、もちろん一種の摩擦の原因となりえます。例えば、関西生まれと関東生まれなら味付けなど、食べ物をめぐる摩擦はあるかもしれませんね。ただ、味付けを濃くするか、薄くするかをめぐる意見の違いだけだったら、私が言っている「アイデンティティー摩擦」というよりも、むしろ「文化摩擦」と言うべきでしょう。しかし、生まれた環境をめぐる「アイデンティティー摩擦」も起きるかもしれません。例えば、関東の会社に、関西生まれの人が入社したとしましょう。関西出身の新社員は他の新社員と同じように、普通に勤めているつもりなのに、「君の関西弁って漫才の話し方そっくり。なんか『おもろいこと』言ってみて」というふうに、絶えず彼が関西人であるということで特別視すれば、「アイデンティティー摩擦」と言えるでしょう。関西出身の新社員は関西弁などに関するコメントに違和感を感じなければ「アイデンティティー摩擦」とは言えないと思いますが、「なんでそんに関西のどうのこうのと言われなければならないのか。ほっておいて欲しい。」という思いがあるなら、やはり「アイデンティティー摩擦」ですね。この場合は講義で説明した「属性偏重」ということになります。

逆のような「アイデンティティー摩擦」もありうると思います。例えば、関西出身の女性が関東の男性と結婚して、関東で暮らしているとしましょう。夫が関東の味付けや料理を求めるばかりで、妻が関西風の料理を作るたんびにいやがったり食べなかったりするなら、関西出身の妻は怒るかもしれませんね。「私はある程度関東の味付けや料理を覚えて、夫の気持ちに配慮しようと思いますが、夫にも関西の文化などに対してもっと関心を持ってほしい」と思うでしょう。自分自身が大事に思っている「関西」を無視されたり、価値のないものとして軽視されたりしたらいやがるでしょう。別のいい方をすれば、「自分が関西出身の人間であるということを理解して、もっと配慮ほしい」というような思いになると思います。これは一種の「アイデンティティー摩擦」にはなりますが、「属性偏重」ではなく「属性軽視」ということになると思います。(このいうな表現は特に決まっている訳ではありませんが、あえて言うならこのような表現がいいのではないかと思います。)