2007年1月9日火曜日

レイシャルプロファイリング関連

次のメールを学生からいただきました。
講義で警視庁の犯罪者のデータのグラフがあり、警視庁のデータでは外国人と一まとめにされていましたが、それは日本が島国だったことにより他の国と関わる機会が少なかったからなのでしょうか。またアメリカ等ではそのようなデータを取る場合は人種などで分けられているのでしょうか。もし仮に人種で区分されているのであれば、レイシャルプロファイリングの原因の一つになるような気がしました。

私からの返事を概ね次のようのものでした。

メール、ありがとうございました。まず、アメリカなどでのデータの取り方について書きたいと思います。

警察がだれに対して職務質問等をするかを決める際に、人種等を考慮することはracial profilingと判断されます。ただ、アメリカでは、犯罪を含めて人種や国籍関連の統計を集めたりすることは通常racial profilingなどと考えられていません。逆にフランスでは人種等に関する統計を集めること自体は差別的な行為、あるいは差別につながるとして禁止されています。正に、フランスでは※※さんが書いたように「人種で区分されているのであれば、レイシャルプロファイリングの原因」になると考えられてきました。しかし、2005年の秋にフランスで貧しい移民による暴動が多発するようになり、この政策が多少問題視されるようになりました。暴動から半年後にHarry Roselmackというアフリカ系ジャーナリストがフランスの人気ニュース番組のキャスターとして起用されました。人種に関する統計すら集められないフランスではaffirmative actionは禁止されていますが、Roselmack氏の皮膚の色と彼の採用は無関係ではないようです。

さて、アメリカ政府などの人種と犯罪関連の統計を

http://www.ojp.usdoj.gov/bjs/


で見てみました。このサイトに載っている図の例をいくつか講義で紹介したいと思います。人種と犯罪関連の統計は発表されていますが、犯罪別にそれぞれの人種は何人捕まっているかなどというようなまとめ方は見当たりませんでした。

因に、人種と犯罪ではなく、移民と犯罪については、ハーバード大学のRobert J. Sampsonなどはアメリカにおいて、移民はむしろ犯罪率の低下につながるという研究結果を発表しています。このような現象は日本でも見られるかどうかとわかりませんが、「移民=犯罪増加」とは限らないという点では興味深いと思います。

マスデン

追伸 「日本が島国だから」というような説明にはあまり今がないと思います。イギリスは島国ですが、移民等に関する日本との相違点が多い。「日本が島国だから」というのは今の状況を理解することにはあまりつながらないと思います。むしろ「島国だから」ということで現状を正当化する形で使われることが多いと思います。

2006年12月22日金曜日

学内私書箱

学内私書箱に先週の講義までのパワーポイントファイルを入れました。学内私書箱はキャンパスの外からのアクセスはできませんが、情報教育センター等で見られます。

学内私書箱にあるファイルはあくまでも私が講義で見せたスライドのみですので、講義を聞いていない場合は理解できないスライドも多いだろうと思います。例えば、学生からのメールの一部をスライドに入れ、講義の中でコメントをすることが多いのですが、パワーポイントのファイルには学生のコメントしかありませんので、講義それについて何を伝えようとしていたかを学内私書箱で確認できません。ただ、期末試験に向けておさらいする上で参考になるスライドもあるだろうと思い、学内私書箱で公開しています。自分自身の講義メモやこのブログと合わせて見て復習するとよいだろうと思います。

2006年12月4日月曜日

アメリカビザ説明会

    日時: 12月8日(金)午後6時〜(1時間程度)
    場所: 本学図書館地下AVホール
これも最近案内しているイベントと同様に、出席して600字程度の感想文を書いてもらえれば、新聞の課題の代わりに受け付けることができます。

研究会:「東洋・アジア」概念の変化

講義のテーマと関連のある研究会が行われますので、お知らせします。
    日時: 2006年12月16日(土)14時〜
    場所: 1123LL(11号館2階・3LL)
    講師: 張 世眞(外国語学部特任講師)
    演題: 1950年代韓国における「東洋・アジア」概念の変化 — アメリカヘゲモニーの受容を中心に
出席したことを証明するような感想文(600字程度)を提出してくれれば、新聞記事の課題の代わりとして受け取ります。

2006年11月29日水曜日

講演会について

連絡が遅くなっていますが、明日(30日)講義のテーマと関連のある講演会が行われますので、お知らせします。
    講師: 大田 静男 (郷土史家)
    演題: 日本人であることの意義はあるのか?
    日時: 11月30日(木)2:40〜4:10
    場所: 12号館1222教室
これは「法と社会I」という講義のゲスト講義です。

出席したことを証明するような感想文(600字程度)を提出してくれれば、新聞記事の課題の代わりとして受け取ります。なお、新聞記事の課題についてはここをクリックしてください。

2006年11月24日金曜日

Affirmative Action

久しぶりの投稿です。遅くなってすみませんでした。18日の講義は主に受講者からのメールの紹介と私からのコメントでした。見せようと思っていたaffirmative actionに関するビデオを見せる時間がなくなりました。メールに偏った講義はあまり面白くなかっただろうと心配していましたが、何人から「多くの学生からのコメントを読むことができてよかった」などの趣旨のメールをもらって、少し安心しました。取り上げたメールの中には「練習問題」に対する答案もありました。問題と答案がよくかみ合うことが大事なことを、今回も強調しました。

さて、今日はaffirmative actionの話が中心でした。先日のアメリカの中間選挙においてミシガン州でaffirmative actionを禁止する住民投票が可決されたこともあって、取り上げました。affirmative actionとは日本では耳慣れない言葉だと思いますが、発想が日本にまったく入ってきていないという訳ではありません。日本のWikipediaの中に「積極的差別是正措置」という項目にあるように、日本では「ポジティブ・アクション」という名前で似た方針の差別是正があります。

講義では十分説明できませんでしたが、「属性偏重」との関係について少しだけ補足したいと思います。1つの属性のみで判断する、あるいは1つの属性を重視過ぎることを「属性偏重」と呼んでいますが、今日のビデオ関連でいうなら、筆記試験のみで進路を決めることは「属性偏重」とも言えます。講義ではより複眼的なアプローチを勧めていますが、非差別少数者であることなども視野に入れた「OA入試」的な発想がもっと複眼的な発想ですね。

2006年11月10日金曜日

「差別」と「属性偏重」

学生から次のメールをもらいました。

外人という言葉は私たち日本人からみて異なる容姿をしている人達のことを一つの概念からみての呼称であり、私たちはその言葉に差別的な意味を決して含んではいないが、彼らからみると差別的な意味を含んでいるように捉えられてしまう。

「差別」という言葉を使っていますので、「差別」と講義で使っている「属性偏重」との関係について書きたいと思います。講義の中で「属性偏重」をキーワードにする理由の1つは「差別」より意味が明確な面があると思うからです。「差別」という言葉をよく耳にしますが、具体的に何が差別で、何が差別でないのかについて意外と総意がありません。「差別」は「悪い」という点についてはあまり異論はないと思いますが、具体的な問題になってくると「何が悪い」については意見が分かれることが多い。

属性偏重はより的を絞った概念だと思います。例えば「外人」の場合は「外国人」よりも「人種」を意識して使われることがあります。まさに学生が書いているように「日本人からみて異なる容姿」ですよね。「人種」や「容姿」は「国籍」と同じではありません。容姿では区別がつかないが、実は外国籍である場合もありますし、西洋人に見えても日本国籍の場合もあります。「属性偏重」という観点から「外人」について考える場合は、容姿にどの程度注目したいか、容姿はどの程度重要かについて考えることになると思います。「外人」が聞く人にとって不快かどうかだけではなく、容姿を重視するその概念を使用するかどうかは使用する人にとって大事な問題だと思います。言葉の問題の指摘を受けて、自分自身の頭の中にある概念を点検することは大事だと思います。口の動かし方や鳴り響く音そのものが重要ではありません。

さて、「外人」と「差別」との関係について二点を指摘したいと思います。

  1. 差別的な状況の中で「外人」という言葉が使われることが多い。


  2. 容姿を強く意識する概念を通して人を見ることが差別につながる恐れがある。

講義の中でこの二点についていろいろと解説しようと思っていますが、ここでは意味と使用法について大事な点を説明します。20世紀の前半に注目を浴びた哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「語の意味とは言語におけるその使用である」と主張しました。つまり、実際に言語の中で言葉がどう使われているかを見れば、その意味を確認することができます。個人的なレベルでは特定の発言の「真意」や「意図」について話し合うこともできますし、場合によっては語源についても考えなければなりませんが、一般的な「意味」は言葉の「使い方」が基本です。辞書に記録される「意味」は使い方に関する記録ですし、皆さんが知っているほとんどの言葉についても、使い方を知っているから「意味」がわかると言えます。そのような意味合いで、Googleを使って、「外人」と「外国人」で検索してみることを勧めています。

最後に、学生のメールに「私たちは」という言葉がありましたが、「私たち」の使用について考える必要があると思います。もう一人の学生からは次のメールがありました。

「外人」という言葉について、私は気づいた時から「外国人」と言っていた気がします。親か学校の先生から言われたのかは自分でも全く覚えていないのですが、ずっと小さい頃から「外人」と言ってはダメ、「外人」ではない、「外国人」という考えが頭にありました。

「私たち」日本人と思っていても、意外とそう思っていない日本人もいるかもしれません。これも一種の「属性偏重」でしょう。

2006年11月8日水曜日

テキストについて

シラバスを書いた段階で予定していたテキスト(姜信子著『ごく普通の在日韓国人』)が品切れとなったため、なだいなだ著の『民族という名の宗教—人をまとめる原理・排除する原理 』を秋学期のテキストにすることを講義の中で説明しました。先日、テキストが丸善に入荷したとの連絡を受けました。丸善によると、受講者と同じ冊数を入れると大幅に売れ残るので、受講者の約1/3にあたる120冊しか注文していません。早目に丸善で入手してください。後回しにするとテキストを入手できなくなるかも知れません。また、その結果、期末試験で合格点をとることができなくなる恐れがあります。

2006年10月28日土曜日

「外人」について

昨日の講義の直後に次のメールが届きました。

外人という言葉に日本人が無関心なのか外国人が意識し過ぎなのかは私には判断が出来ません。個人的には「外人」という言葉は端的にその人の属性をあらわす言葉だと思います。その中には差別の意識は含まれていません。しかし相手の立場に立って考えれば、また実際に使われている「外人」という言葉の意味を考えれば、使わないに越したことはないと思いました。


講義の中で、「外国人」と比べて、「外人」という言葉の方が、C.W.ニコルがビデオの中で言ったように、属性を強く意識している、と主張しました。また、私の話、あるいはニコル氏の話には納得できないと思えば、Googleで検索してみるといいと言いました。今、「外人」という言葉で検索してみると、ポルノのサイトが多く出てきます。「外国人」で検索するとポルノサイトがまったくと言っていいほど出てきません。「外人」では出てこない、外国人の就職、生活、権利などに関するサイトがたくさんでてきます。

これだけでは、属性を強く意識しているかどうかについてははっきりしないだろうと思いますが、「外人」は単に「外国人」の省略形でしかない、ということは言えないということは明確でしょう。「外人」の方が人種を指す場合に使われることが多いですね。このことはポルノサイトで「外人」が好んで使われることと深い関係があります。「外人」は「その人の属性をあらわす言葉だ」と言っても、その「属性」とはどのような属性でしょうか。「人種」(欧米人)なのか、「国籍」なのか、それとも「文化」なのでしょうか。

ニコル氏や私などが「外人」の使い方に過度な意識を感じる理由の1つには、「人種になぜこだわる必要があるのか」という違和感があるからです。入国審査の際に「外国人」という言葉が出てくるのもわかりますし、文化やルーツについて話す場合にも「外国人」の言葉が出てくることには違和感がありません。しかし、そもそも人種、身体の特徴、容姿などで人を分類しようとすることには違和感があります。ニコル氏いわく「どうしてそんなに意識しないといけないのか?」という疑問が出てきます。

引用した学生の「相手の立場に立つて」というのはよくわかりますが、講義で話したように、私やニコル氏が「外人」と呼ばれると少し不快感を覚えることだけがその言葉を使わない理由ではないと思います。その言葉を使いたくなるのは「外国人」という「概念」よりも「外人」という、人種的な側面を意識した概念で見ることを好んでいるのではないかと思います。問題は言葉ではなく、概念だと思います。

講義で「外人」という言葉の概念についてもう少し時間をかけて考えていきたいと思います。

メールと文化について

前回の「ポッドキャストについて」という投稿の中で、メールの中で講義の問題点等を指摘することは歓迎しますが、書き方について注意してほしいということを書きました。その後、気になっていたメールを書いた学生がメールをくれて、授業におけるポッドキャストの役割やメリットなどに関する疑問を表現しただけで、それ以上の意味はなかったことを教えてくれたので、ほっとしました。私から学生への返事の中で次のことを書きました。

就職活動をする際、あるいは就職してから年上の人とメールのやり取りをする際に「短いメールは要注意」と考えてもらえればいいように思います。問題提起や疑問を表現する場合は特にそうだと思います。数年前に、同僚と学生とのメールのやり取りについて話していたことを思い出します。その先生は学生に「メールに一筆を添えてね」と話していると言っていました。この背景に、世代により感覚の違い、世代間の文化的な違いだと思います。40代以上の世代はメールがない時代に育って、「手紙」の感覚が強いと思います。手紙は「拝啓」や「季節の言葉」から始り、本題を丁寧に説明してから最後に挨拶の言葉や「敬具」で終わるような書き方が常識の時代でした。この時代に育った人は、主なコミュニケーションの手段を紙の手紙からメールに代えていますが、まだ昔の「手紙」の常識が脳裏にあります。その世代の人にとって批判や問題提起、誤りの指摘がメールで、挨拶もなく、単刀直入に書かれていると、驚いたり、怒ったりすることがあります。
メールは世代的な「文化」や常識の違いに加えて、顔の表情等がないという問題点があるので、「送信」を押す前にメールを読み直して、「これは誤解を招くことはないかな」、「誤解を防ぐために、前置きを付け加えたり、表現を変えたりするような工夫はいらないかな」と考えるといいと思います。


実は、春学期にメールと必然性のない当たり前(文化)について話したいと思っていましたが、毎回伝えたい内容が多く、あまり話すことができませんでした。今年の春だったと思いますが、朝日新聞に若い世代のメール文化に関する記事がありました。私にとって、興味深かったのは、中学生か高校生の女の子の言葉でした。「絵文字のないメールは冷たく感じる」という趣旨でした。なるほど、私のように手紙の常識が頭にある世代にとっては、単刀直入のごく短いメールをもらって「何これ?」と思うことがあるように、私が書くような絵文字のないメールは、相手によっては違和感があるかも知れません。どっちが正しいという訳ではなく、常識の違い、文化の違いだと思います。双方ともできるだけ自分にとって「当たり前」のメールに関する考え方等が相手にとっては必然性がないということを意識して、誤解を与えないように、そして誤解しないように注意したいですね。

2006年10月27日金曜日

ポッドキャストについて

先週、最近始めたポッドキャストを紹介しました。そのテキストを読みたい場合はここをクリックしてください。詳しく知りたい人のためにいろいろなリンクを貼りました。

ポッドキャストの内容について次の学生からのコメントがありました。

 金曜日の講義では、イラク戦争の死者が、64万人と非常に多くなった事を、1部のメディアしか取り上げていなかったこととにより、必要な情報がメディアに出てこないときもあり、この辺に問題があるということがわかりました。つぎに、ポッドキャストを聞きました。ポッドキャストの中では、アメリカメディアについて取り上げられていました。コンゴ戦争という第二次世界大戦後最悪の死者をだのした戦争にもかかわらず、メディアに取り上げられることが非常に少なく、この戦争の事を知っている人が、非常に少なくなってしまっている事を知りました。ここでは、メディアの問題と、自分たちの問題という意識の低さが問題となっていることがわかりました。ポッドキャストは、先生の声が比較的スローだったので、ずっと聞いていたら眠くなってしまうかもしれません。


私が伝えようと思っていた趣旨をうまく要約できていると思います。

もう一人の学生さんから次のメールがありました。

ポッドキャストを使って伝える場合にはどういう利点があるのですか?あえてポッドキャストを授業で使ったのはなぜですか?


ある意味ではこのメールはよくわかります。内容は別にして講義の中でポッドキャストを使うのはあまりよくないだろうと、やってみて思いました。ただ、以上引用した文はメールのすべてです。問題点を指摘することは大事なことで歓迎ですが、伝え方についてはもう少し考えてほしいと思います。

さて、イラクでの死者数の話題の講義の流れの関係について少し書きたいと思います。「敵の顔」というビデオを通して文化論と戦争の関係について考えてきたつもりです。文化論はある意味では単なる観念や発想でしかありません。しかし、場合によって、そういう観念や発想は戦争や差別などのような行動につながります。先週と先々週のビデオでその結果がいかに悲惨なものになりうるかについて考えたつもりです。

これからは「ガイジン」など、問題視される言葉について話します。程度はともあれ、言葉と観念がつながっている以上、言葉と人間の行動に同様の関係があると思います。