- 講師: 大田 静男 (郷土史家)
演題: 日本人であることの意義はあるのか?
日時: 11月30日(木)2:40〜4:10
場所: 12号館1222教室
出席したことを証明するような感想文(600字程度)を提出してくれれば、新聞記事の課題の代わりとして受け取ります。なお、新聞記事の課題についてはここをクリックしてください。
外人という言葉は私たち日本人からみて異なる容姿をしている人達のことを一つの概念からみての呼称であり、私たちはその言葉に差別的な意味を決して含んではいないが、彼らからみると差別的な意味を含んでいるように捉えられてしまう。
「外人」という言葉について、私は気づいた時から「外国人」と言っていた気がします。親か学校の先生から言われたのかは自分でも全く覚えていないのですが、ずっと小さい頃から「外人」と言ってはダメ、「外人」ではない、「外国人」という考えが頭にありました。
外人という言葉に日本人が無関心なのか外国人が意識し過ぎなのかは私には判断が出来ません。個人的には「外人」という言葉は端的にその人の属性をあらわす言葉だと思います。その中には差別の意識は含まれていません。しかし相手の立場に立って考えれば、また実際に使われている「外人」という言葉の意味を考えれば、使わないに越したことはないと思いました。
就職活動をする際、あるいは就職してから年上の人とメールのやり取りをする際に「短いメールは要注意」と考えてもらえればいいように思います。問題提起や疑問を表現する場合は特にそうだと思います。数年前に、同僚と学生とのメールのやり取りについて話していたことを思い出します。その先生は学生に「メールに一筆を添えてね」と話していると言っていました。この背景に、世代により感覚の違い、世代間の文化的な違いだと思います。40代以上の世代はメールがない時代に育って、「手紙」の感覚が強いと思います。手紙は「拝啓」や「季節の言葉」から始り、本題を丁寧に説明してから最後に挨拶の言葉や「敬具」で終わるような書き方が常識の時代でした。この時代に育った人は、主なコミュニケーションの手段を紙の手紙からメールに代えていますが、まだ昔の「手紙」の常識が脳裏にあります。その世代の人にとって批判や問題提起、誤りの指摘がメールで、挨拶もなく、単刀直入に書かれていると、驚いたり、怒ったりすることがあります。
メールは世代的な「文化」や常識の違いに加えて、顔の表情等がないという問題点があるので、「送信」を押す前にメールを読み直して、「これは誤解を招くことはないかな」、「誤解を防ぐために、前置きを付け加えたり、表現を変えたりするような工夫はいらないかな」と考えるといいと思います。
金曜日の講義では、イラク戦争の死者が、64万人と非常に多くなった事を、1部のメディアしか取り上げていなかったこととにより、必要な情報がメディアに出てこないときもあり、この辺に問題があるということがわかりました。つぎに、ポッドキャストを聞きました。ポッドキャストの中では、アメリカメディアについて取り上げられていました。コンゴ戦争という第二次世界大戦後最悪の死者をだのした戦争にもかかわらず、メディアに取り上げられることが非常に少なく、この戦争の事を知っている人が、非常に少なくなってしまっている事を知りました。ここでは、メディアの問題と、自分たちの問題という意識の低さが問題となっていることがわかりました。ポッドキャストは、先生の声が比較的スローだったので、ずっと聞いていたら眠くなってしまうかもしれません。
ポッドキャストを使って伝える場合にはどういう利点があるのですか?あえてポッドキャストを授業で使ったのはなぜですか?
自分の国が戦争状態になっても戦わないと主張する人は、じゃあどうするの?って思います。もちろん自分だって戦いたくありませんが、戦わなければならない時もあるのでは無いでしょうか?私たちは日本という国という枠組みがあるからこそ、現在のような暮らしが出来ていると思います。そしてその中で家族や友達とあるいは幸せに暮らしているのでは無いでしょうか。今の日本が理由も無くこちらから戦争を仕掛けることは恐らく無いと思います。しかし、もし外国等から戦線布告されたらどうするんでしょうか。逃げる?平和をうったえる?どちらも(戦時下では)あまり意味があるとは思えません。確かに戦争は悲惨だと思います。出来るならしてはいけないと思います。実際に体験したわけではありませんが、想像くらいは出来ます。しかし、それでも「国のためには戦わない」というのは日本人としてのモラルに欠けると思います。あくまで自分の個人的な意見ですが、「私は国のためには戦わない」とは声高に主張することでは無いと思います。
ちなみに熊本の版画家(ハマダさん?)の人が言ってることはあまり共感出来ないです。詳しいことは割愛しますが、言ってることが矛盾してると思いました。
- 講義内容について
- 先生が行かれたラスベガスでの話
ラスベガスのホテルでの冷房の温度について、文化の違いについてなどの話がありました- チョムスキーのビデオ関連の説明
前回の授業で見たビデオがアイデンティティーの話とどのように関わっているのかということについての説明がありました。- 「政策論と文化論」についての話
文化論を出すことで、政策論から目をすらすことができること、「我々」と「彼ら」のように相手との違いを強調しているなどの話がありました。- ビデオ「Faces of the Enemy」
- 前回行ったアイデンティティーの属性を表す表に関しての話
「何々人」という属性が大きくするのではなく、色々な属性があって一人の人間と捉えることの必要性について話がありました。- 講義の感想
「Faces of the Enemy」のビデオを見て、「必要なのは銃ではなく敵の概念」という言葉が印象に残りました。
敵を人間ではなく害虫や動物としてイラストにすることが、人を人として扱わなり、そのような考えが人を殺しても罪の意識を感じなくさせてしまうということがよく分かりました。過去の戦争における虐殺もこのような考えに基づいて行われてしまったんだろうと思いました。殺人を犯した人が共産党主義者という敵がすべて悪いのであって自分は何も悪くないというような発言を聞いて、敵という概念が必要だという話がここによく表れていると思いました。
また、先生もおっしゃっていたようにアメリカ軍のプロパガンダの中で、日本兵のことをネガを焼き付けたように皆同じ顔をしているという発言が印象的でした。一人の人間として見るのではなく、皆同じものだとあのビデオを使って兵士たちに刷り込んであったように感じました。
今回のビデオを見て、"何々人"など一つのアイデンティティーだけを見ることは危険な思い込みを生じさせてしまうことに繋がってしまうと思いました。一つのアイデンティティーがその人物のすべてであると考えずに、色々なアイデンティティーがあって一人の人間だということを私たちは忘れてはならないと思いました。