2010年11月19日金曜日

「反日」や「反米」について

先週、授業で見せたビデオの中に「反日教育」というフレーズが使われていました。ビデオを見せた後に、その「反日」の意味について受講生の皆さんと一緒に考えてみました。

今日は、先週の講義での話を補うために、イランにおける「反米」について書きたいと思います。イランとアメリカの関係がよくないことはよく知られています。最近はイランが核兵器を開発するのではないかということで、アメリカがイランを厳しく牽制しようとしています。この問題などをめぐって双方の国のリーダーが相手国を厳しく批判しています。また、今年の「比較文化論」の春学期に紹介したように、過去にアメリカとイランとの間で起きた歴史的な問題が複数あります。これらの問題が背後にあって、現在のアメリカ政策を糾弾する「反米デモ」もイランで行われるようです。例えば、2006年にBBCが出した記事によると、"Anti-American protests in Tehran are a regular event" (テヘランでは反米デモは定期的に行われている)そうです。デモは比較的頻繁に起きていることは事実だろうと思いますが、「だからイラン人には反米感情が強い」と言えるのでしょうか。

私自身はイランに行ったことはありませんが、イランに行った経験のあるアメリカ人の話をラジオ等で聞くことがあります。イランに実際に行って、町のなかで普通のイラン人と話そうとするアメリカ人はよくイラン人のアメリカ人に対する好意的な興味について話します。アメリカ人だとわかるとたくさんのイラン人に囲まれて「私たちはアメリカ政府のやることに腹を立てることがよくありますが、アメリカ人が大好きです」と言われたりするそうです。アメリカ政府の政策に対する批判はいろいろありますが、同時にアメリカ文化やアメリカ人に対する憧れもあるようです。

この例に「反米」(anti-American)という表現の問題点を垣間見ることができると思います。「反米」という表現は「全面的な反米感情」を想起させますが、実はもっと具体的な「対米批判」があるだけの場合があります。「全面的な反米感情」や「全面的な反日感情」を持っている人間も世の中にいると思いますので、「部分的な批判」も「全面的な反米感情」も「反米」という言葉でひとくくりにしてしまうと、両者を区別しなくなることに問題があるでしょう。区別しなくなると、その「部分的な批判」の中身を理解しようとしないで、「どうせあいつらは反米感情が強いだけで、まともな意見なんかないだろう」という具合に片付けてしまうのではないでしょうか?先週のメールの中に「反〇だと言って聞く耳をもたない」という表現がありましたが、まさに、一旦「反〇」だと思ってしまうと耳を持たなくなってしまうことに問題があります。

「反日」や「反米」という表現を多用してしまうと、問題の中身について深く考えずに、「あいつら、何々人は理不尽にも私たちを嫌っているだけ」と、知らず知らずのうちに決めつけてしまうことにつながるのではないでしょう。「批判の中身」を考えずに、「また、何々人が何か言っている」という見方になれば、その「何々人」を意識しすぎているという点で、この講義で言う「属性偏重」になります。

最後に、まとめとして、学生からのメールにあった表現を借りたいと思います。つまり、「反日感情を持ってる人は日本のことを嫌いでなにも認めてない人だ」ということになりますが、「日本を批判する=反日ではないことがわかった」とまとめてくれました。講義の主旨をよく理解してくれた言葉だと思います。