2006年10月28日土曜日

「外人」について

昨日の講義の直後に次のメールが届きました。

外人という言葉に日本人が無関心なのか外国人が意識し過ぎなのかは私には判断が出来ません。個人的には「外人」という言葉は端的にその人の属性をあらわす言葉だと思います。その中には差別の意識は含まれていません。しかし相手の立場に立って考えれば、また実際に使われている「外人」という言葉の意味を考えれば、使わないに越したことはないと思いました。


講義の中で、「外国人」と比べて、「外人」という言葉の方が、C.W.ニコルがビデオの中で言ったように、属性を強く意識している、と主張しました。また、私の話、あるいはニコル氏の話には納得できないと思えば、Googleで検索してみるといいと言いました。今、「外人」という言葉で検索してみると、ポルノのサイトが多く出てきます。「外国人」で検索するとポルノサイトがまったくと言っていいほど出てきません。「外人」では出てこない、外国人の就職、生活、権利などに関するサイトがたくさんでてきます。

これだけでは、属性を強く意識しているかどうかについてははっきりしないだろうと思いますが、「外人」は単に「外国人」の省略形でしかない、ということは言えないということは明確でしょう。「外人」の方が人種を指す場合に使われることが多いですね。このことはポルノサイトで「外人」が好んで使われることと深い関係があります。「外人」は「その人の属性をあらわす言葉だ」と言っても、その「属性」とはどのような属性でしょうか。「人種」(欧米人)なのか、「国籍」なのか、それとも「文化」なのでしょうか。

ニコル氏や私などが「外人」の使い方に過度な意識を感じる理由の1つには、「人種になぜこだわる必要があるのか」という違和感があるからです。入国審査の際に「外国人」という言葉が出てくるのもわかりますし、文化やルーツについて話す場合にも「外国人」の言葉が出てくることには違和感がありません。しかし、そもそも人種、身体の特徴、容姿などで人を分類しようとすることには違和感があります。ニコル氏いわく「どうしてそんなに意識しないといけないのか?」という疑問が出てきます。

引用した学生の「相手の立場に立つて」というのはよくわかりますが、講義で話したように、私やニコル氏が「外人」と呼ばれると少し不快感を覚えることだけがその言葉を使わない理由ではないと思います。その言葉を使いたくなるのは「外国人」という「概念」よりも「外人」という、人種的な側面を意識した概念で見ることを好んでいるのではないかと思います。問題は言葉ではなく、概念だと思います。

講義で「外人」という言葉の概念についてもう少し時間をかけて考えていきたいと思います。

メールと文化について

前回の「ポッドキャストについて」という投稿の中で、メールの中で講義の問題点等を指摘することは歓迎しますが、書き方について注意してほしいということを書きました。その後、気になっていたメールを書いた学生がメールをくれて、授業におけるポッドキャストの役割やメリットなどに関する疑問を表現しただけで、それ以上の意味はなかったことを教えてくれたので、ほっとしました。私から学生への返事の中で次のことを書きました。

就職活動をする際、あるいは就職してから年上の人とメールのやり取りをする際に「短いメールは要注意」と考えてもらえればいいように思います。問題提起や疑問を表現する場合は特にそうだと思います。数年前に、同僚と学生とのメールのやり取りについて話していたことを思い出します。その先生は学生に「メールに一筆を添えてね」と話していると言っていました。この背景に、世代により感覚の違い、世代間の文化的な違いだと思います。40代以上の世代はメールがない時代に育って、「手紙」の感覚が強いと思います。手紙は「拝啓」や「季節の言葉」から始り、本題を丁寧に説明してから最後に挨拶の言葉や「敬具」で終わるような書き方が常識の時代でした。この時代に育った人は、主なコミュニケーションの手段を紙の手紙からメールに代えていますが、まだ昔の「手紙」の常識が脳裏にあります。その世代の人にとって批判や問題提起、誤りの指摘がメールで、挨拶もなく、単刀直入に書かれていると、驚いたり、怒ったりすることがあります。
メールは世代的な「文化」や常識の違いに加えて、顔の表情等がないという問題点があるので、「送信」を押す前にメールを読み直して、「これは誤解を招くことはないかな」、「誤解を防ぐために、前置きを付け加えたり、表現を変えたりするような工夫はいらないかな」と考えるといいと思います。


実は、春学期にメールと必然性のない当たり前(文化)について話したいと思っていましたが、毎回伝えたい内容が多く、あまり話すことができませんでした。今年の春だったと思いますが、朝日新聞に若い世代のメール文化に関する記事がありました。私にとって、興味深かったのは、中学生か高校生の女の子の言葉でした。「絵文字のないメールは冷たく感じる」という趣旨でした。なるほど、私のように手紙の常識が頭にある世代にとっては、単刀直入のごく短いメールをもらって「何これ?」と思うことがあるように、私が書くような絵文字のないメールは、相手によっては違和感があるかも知れません。どっちが正しいという訳ではなく、常識の違い、文化の違いだと思います。双方ともできるだけ自分にとって「当たり前」のメールに関する考え方等が相手にとっては必然性がないということを意識して、誤解を与えないように、そして誤解しないように注意したいですね。

2006年10月27日金曜日

ポッドキャストについて

先週、最近始めたポッドキャストを紹介しました。そのテキストを読みたい場合はここをクリックしてください。詳しく知りたい人のためにいろいろなリンクを貼りました。

ポッドキャストの内容について次の学生からのコメントがありました。

 金曜日の講義では、イラク戦争の死者が、64万人と非常に多くなった事を、1部のメディアしか取り上げていなかったこととにより、必要な情報がメディアに出てこないときもあり、この辺に問題があるということがわかりました。つぎに、ポッドキャストを聞きました。ポッドキャストの中では、アメリカメディアについて取り上げられていました。コンゴ戦争という第二次世界大戦後最悪の死者をだのした戦争にもかかわらず、メディアに取り上げられることが非常に少なく、この戦争の事を知っている人が、非常に少なくなってしまっている事を知りました。ここでは、メディアの問題と、自分たちの問題という意識の低さが問題となっていることがわかりました。ポッドキャストは、先生の声が比較的スローだったので、ずっと聞いていたら眠くなってしまうかもしれません。


私が伝えようと思っていた趣旨をうまく要約できていると思います。

もう一人の学生さんから次のメールがありました。

ポッドキャストを使って伝える場合にはどういう利点があるのですか?あえてポッドキャストを授業で使ったのはなぜですか?


ある意味ではこのメールはよくわかります。内容は別にして講義の中でポッドキャストを使うのはあまりよくないだろうと、やってみて思いました。ただ、以上引用した文はメールのすべてです。問題点を指摘することは大事なことで歓迎ですが、伝え方についてはもう少し考えてほしいと思います。

さて、イラクでの死者数の話題の講義の流れの関係について少し書きたいと思います。「敵の顔」というビデオを通して文化論と戦争の関係について考えてきたつもりです。文化論はある意味では単なる観念や発想でしかありません。しかし、場合によって、そういう観念や発想は戦争や差別などのような行動につながります。先週と先々週のビデオでその結果がいかに悲惨なものになりうるかについて考えたつもりです。

これからは「ガイジン」など、問題視される言葉について話します。程度はともあれ、言葉と観念がつながっている以上、言葉と人間の行動に同様の関係があると思います。

2006年10月20日金曜日

学内私書箱

今日までのパワーポイントのスライドをすべて学内私書箱にアップロードをしました。学内私書箱の閲覧は学内のみとなっています。来週の講義で説明をしたいと思います。

Internet Explorerでの閲覧問題について

今日の講義で、Internet Explorerでこのブログを閲覧する場合には手動でUNICODEの文字コードを指定する必要があるといいましたが、ブログの文字コード設定をUNICODEから日本語のShift_JISに変えましたので、おそらくこれで問題が解決したのではないかと思います。

講義に対する疑問

学生から次のメールが届きました。

自分の国が戦争状態になっても戦わないと主張する人は、じゃあどうするの?って思います。もちろん自分だって戦いたくありませんが、戦わなければならない時もあるのでは無いでしょうか?私たちは日本という国という枠組みがあるからこそ、現在のような暮らしが出来ていると思います。そしてその中で家族や友達とあるいは幸せに暮らしているのでは無いでしょうか。今の日本が理由も無くこちらから戦争を仕掛けることは恐らく無いと思います。しかし、もし外国等から戦線布告されたらどうするんでしょうか。逃げる?平和をうったえる?どちらも(戦時下では)あまり意味があるとは思えません。確かに戦争は悲惨だと思います。出来るならしてはいけないと思います。実際に体験したわけではありませんが、想像くらいは出来ます。しかし、それでも「国のためには戦わない」というのは日本人としてのモラルに欠けると思います。あくまで自分の個人的な意見ですが、「私は国のためには戦わない」とは声高に主張することでは無いと思います。
ちなみに熊本の版画家(ハマダさん?)の人が言ってることはあまり共感出来ないです。詳しいことは割愛しますが、言ってることが矛盾してると思いました。


講義や講義で紹介したビデオに対して疑問を投げかけています。私の話などを含めて、鵜呑みにしないで、納得できない点は「納得できない」というのはとても必要なことだと思います。ありがとうございました。

この投稿を読んで感想や意見があれば、「コメント」をクリックして、書いてください。

2006年10月14日土曜日

メールの書き方の例

毎週、思慮深い、たいへんいいメールをいただいています。次のメールは中でも特にいいと思います。このような書き方の特徴の1つは感想だけでなく、講義に関するノートもきちんと書かれていることです。10月6日の講義に関するこのメールを13日の講義で紹介しようと思っていましたが、時間が足りなくなりましたのでここで紹介します。

  • 講義内容について

    • 先生が行かれたラスベガスでの話
    • ラスベガスのホテルでの冷房の温度について、文化の違いについてなどの話がありました
    • チョムスキーのビデオ関連の説明
    • 前回の授業で見たビデオがアイデンティティーの話とどのように関わっているのかということについての説明がありました。 
    • 「政策論と文化論」についての話
    • 文化論を出すことで、政策論から目をすらすことができること、「我々」と「彼ら」のように相手との違いを強調しているなどの話がありました。
    • ビデオ「Faces of the Enemy」

    • 前回行ったアイデンティティーの属性を表す表に関しての話
    • 「何々人」という属性が大きくするのではなく、色々な属性があって一人の人間と捉えることの必要性について話がありました。

  • 講義の感想

  •  「Faces of the Enemy」のビデオを見て、「必要なのは銃ではなく敵の概念」という言葉が印象に残りました。
    敵を人間ではなく害虫や動物としてイラストにすることが、人を人として扱わなり、そのような考えが人を殺しても罪の意識を感じなくさせてしまうということがよく分かりました。過去の戦争における虐殺もこのような考えに基づいて行われてしまったんだろうと思いました。殺人を犯した人が共産党主義者という敵がすべて悪いのであって自分は何も悪くないというような発言を聞いて、敵という概念が必要だという話がここによく表れていると思いました。 
     また、先生もおっしゃっていたようにアメリカ軍のプロパガンダの中で、日本兵のことをネガを焼き付けたように皆同じ顔をしているという発言が印象的でした。一人の人間として見るのではなく、皆同じものだとあのビデオを使って兵士たちに刷り込んであったように感じました。
      今回のビデオを見て、"何々人"など一つのアイデンティティーだけを見ることは危険な思い込みを生じさせてしまうことに繋がってしまうと思いました。一つのアイデンティティーがその人物のすべてであると考えずに、色々なアイデンティティーがあって一人の人間だということを私たちは忘れてはならないと思いました。

2006年10月12日木曜日

戦争と普通の人

メールの中に次のコメントがありました。
今日の文化論のような我々と彼らの違いを強調することにより争いは絶えないと私は思う。先生は戦争の状況での人の考え方を想像した事がありますか?私は戦争が本当に嫌いだけど状況次第では私も人を人として見れなくなってしまうのかが不安です。

私は次の返事を書きました。
私自身が想像したことがあるかについてですが、想像しようしていますが、経験が乏しいので、十分に想像できていないだろうと思います。ただ、なぜ普段ふつうに暮らしているひと、家族や友達に対して優しくしている人などが、戦争の中でひどいことができるようになることについて考えたり、想像しようとしたりすることはすこぐ重要なことだと思います。**さんは、「況次第では私も人を人として見れなくなってしまうのかが不安」と考えていることは、実は非常に健全なことではないかと思います。私たちと変わらない「普通の人」が戦争で人を殺したり、状況によっては人を差別したりすることが多いと思います。余裕のある状況ではそういうことをする必要がないし、しようとも思わないけども、心の準備などができていないと、状況次第で我々人間はそういう恐ろしいことができてしまう動物ではないかと思います。**さんのように「況次第では私も人を人として見れなくなってしまうのかが不安」と普段から考えていて、用心していれば、いざとなって「相手は『テロリスト』ではなく、人間だ」と思い出すことができるでしょう。しかし、逆に「私は悪いことをするような人ではない」と思い込み、用心していなければ、いざとなって思わず回りの雰囲気や自分自身の感情に動かされて、自分の行動の問題に気づいた段階ではもう遅い、というようなことがあるのではないかと思います。

属性偏重

一人の受講者から次の内容の入ったメールを受信しました。

前回、前々回の授業を受けたり、ブログの文章を読んだりして、感じたことは一言でいうと「属性偏重をするべきではない」というメッセージが込められているということでした。民族、人種だけでその人のアイデンティティを決めつけてしまうということは、その人の本質を否定することにつながります。1学期にやった人種、民族差別に関しても属性偏重が原因で引き起こされる場合が多いのではないでしょうか。

返信で私は次のことを書きました。

まったくその通りです。「属性偏重」という表現は昨日の講義では使いませんでしたが、内容はまさにそのことでした。

属性偏重は秋学期のキーワードの1つになりますので、講義を聞きながら「これは属性偏重とどういう関係があるか」について考えてもらえればいいと思います。

2006年10月7日土曜日

「敵の顔」関連のメール

6日の講義の時間に「敵の顔」というドキュメンタリーを見せました。あまりにも重い内容なので、受講者の中に拒絶反応を起こす人がいるのではないかと心配しましたが、今までのメールを見る限り、受講者の皆さんは内容をよく理解し、深く考えてくれていると思います。後日、そのメールの一部をここで紹介して、感想や意見を書きたいと思います。

メールを読むことは私にとって、たいへん有益です。鋭いコメントがいろいろあって、このプログ、あるいは次の講義で取り上げたい内容がたくさんあります。ただ、少し気になるのは講義の主なポイントを要約する人が少ないということです。ホームページにある「成績評定」のページでは次のように書いています。

講義においてメールに関して特別な説明がない場合は講義の趣旨や主な内容を自分なりに要約した上で、感想や質問等を付け加えてmasden@kumagaku.ac.jpへ送ってください。件名には「比較文化論」の文字を入れ、本文にはお名前の他に、学籍番号をアラビア数字で書いてください。このメールは皆さん一人一人のノートにもなりますので、必ず保存して、試験の前に読み直してください。


成績のことが気になるなら、上記のようなことを心がけるといいと思います。ただ、メールを書いてくれないよりは、その時々の感想だけでも書いてくれた方がいいです。どんどん送ってください。