2007年5月17日木曜日

English Conversation

最近、留学生などと英会話ができる時間が設けられたそうです。

  曜日:月曜日から金曜日までの平日
  時間:4:30から5:30まで
  場所:1号館の国際交流センターの近くの部屋
     (国際交流センターで聞いてください)

だれでも自由に参加できるそうです。

戦争と国内暴力の関係

メールに次の質問がありました。
ブログを読むことで講義でわかりづらかった部分も理解することができました。アメリカの銃社会の背景がわかりよかったです。もしアメリカが憲法やアイゼンハワーの警告をちゃんと聞いていたら現在のアメリカは銃による殺人は少なかったのか?そこをもう少し知りたいです。

次の返事を書きました。
ブログを読んでくれていますね。ありがとうございました。最後のご質問は難しいです。アイゼンハワーは銃規制を求めていたのではなく、軍産複合体の監視を呼びかけていました。この警告通りに多くのアメリカが警戒をしていれば、イラク戦争はなかっただろうと思います。しかし、銃による犯罪になると、「海外での暴力による国内での暴力への影響」ということになります。影響があるという説がありますが、立証がむずかしいです。

外交政策において「物事を暴力で解決する」という発想が社会で広く認められるようになれば、国内でも同様の発想を行動に移す人が増えるだろうと考えられますが、上で書いたように因果関係を示すのはむずかしいです。「タクシードライバー」(1976)という名画では、ベトナム戦争から帰ってきた元海兵隊のタクシー運転手がアメリカ国内でも暴力に向かっていく姿を描いています。元軍人の帰国後の暴力(特に家庭内暴力)の場合は統計上の関係は確認できるだろうと思いますが、社会全体(特に直接的に海外で戦争を体験していない人の暴力)については因果関係の立証は大変困難です。

2007年5月12日土曜日

銃社会の背景

4月19日の講義後にもらった複数の受講生からのメールの中に「そもそも銃の所有には何のメリットがあるか?」という疑問がありました。「どうしてアメリカで銃所持が許されているか?」のような問いに答えるなら、まず銃所持の権利を保障するアメリカ国憲法の修正第二条から説明しなければなりません。修正第二条は次のとおり:
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。

後半では銃所持の権利を明記しているだけですが、肝心な理由は前半に書いてあります:民兵が必要だから。ただ、これは現在のアメリカの現状では理解に苦しむ理由なんですね。現在のアメリカでは国家の安全を「民兵」のような素人集団に託している訳ではなく、異常なほどに発達したプロの軍隊が国家や「国家の利益」を守ることになっています。

憲法制定当時のアメリカには常備軍がなく、農民や町の市民で組織する「民兵」に頼っていたことが修正第二条の背景にあります。もう1つ重要なのは、常備軍がなかったというよりも、常備軍に対する不信感があって、むしろ市民で構成する民兵がいいと考えられていたということです。

常備軍に対する不信感は、建国の精神や理念とよく合致します。当時、軍であろうが、大統領やその側近であろうが、一カ所に力が集中してしまうことは民主主義を脅かすと考えていました。力が集中しやすい常備軍は民主主義国家にはふさわしくなく、それぞれの地方の民兵に頼る方が望ましいとの価値観が修正第二条の背後にあります。

簡単にまとめると修正第二条の趣旨は次のようになります:(常備軍を持たない我が国では)民兵が必要。民兵が機能するためには市民(国民)が武器を所有する必要があるから、政府が市民から武器を取り上げてしまうようなことがあってはならない。憲法に「常備軍を持たない我が国では」とは書いていませんが、常備軍がないことが修正第二条の前提になっています。

さて、修正第二条が制定された当時の趣旨はだいたい以上の通りですが、そもそも建国の父たちはなぜ常備軍より、民兵の方が望ましいと考えていたをもう少し説明する必要があるでしょう。今の世の中では「民兵」というと非常に古くさい、非現実的な感じがするように思います。建国の父たちは、素人集団の「民兵」がプロの常備軍よりいいと考えていたと聞いただけで多くの受講生にはぴんと来ないだろうと思います。そこで約170年後のアイゼンハワーの演説を取り上げることにしました。1961年の離任演説のなかで、アイゼンハワーは「軍産複合体」を警戒する必要があることを指摘しました。「軍産複合体」は「常備軍 + 軍需産業」のことですが、発想は建国の父たちと同じです。民主主義のなかでは、なんと言っても「民意」が重要ですが、軍や軍需産業が発達しすぎると、国の政策は「民意」ではなく「軍意」(軍産複合体に関わっている連中がやりたがっていること)で決まってしまう恐れがあるということです。

今までの経緯を大雑把にまとめると、建国の父たちは「常備軍は危ないから、民兵でいこう」と考え、1961年にアイゼンハワーは「民兵をやめて、常備軍にせざるを得なくなってきたけども、軍産複合体の影響力が増してきて、危なくなってきているよ」と警告して、そして今、アイゼンハワーが恐れたように、「軍産複合体」が国策決定へ過大な影響を及ぼした結果、毎日ニュースで見るイラクの惨事があります。

こうして考えると「常備軍ではなく、民兵で行こう」と考えた建国の父たちはなかなか賢かったかも知れないという気がしてきませんか?今の世の中では「民兵」は非現実的な感じがするかも知れませんが、授業で紹介したようにスイスはそれに近い形を堅持しています。しかも、銃は単なる「趣味」ではなく、市民が国を守る道具として、責任を持って家で保管するスイスでは銃による犯罪がアメリカよりずっと低い。

たいへん長くなりましたが、このエッセーを通じて言いたいことは、修正第二条の背後にはばかにできない思想と知恵があるということです。巨大な軍を持つ現在のアメリカでの銃所持の意味が変わってしまい、さまざまの問題が起きていますが、制定当初の思想(常備軍を持たずに、民兵で行こう)を堅持すれば、今のアメリカはずっとマシではないかと思います。

2007年5月1日火曜日

4月26日の講義

さきほど4月26日の講義に使ったパワーポイントファイルを学内私書箱に入れました。

講義では銃社会としてのアメリカの歴史的背景について話した後に、マイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」の一部を見せました。メールのほとんどはこのドキュメンタリーをめぐる感想でした。ドキュメンタリーが講義より面白いのはよくわかりますが、講義内容の要約であるはずのメールが、講義そのものを省略して、ビデオやDVDに関する感想のみになってしまうと、好ましいことではないと思います。また、ムーアのドキュメンタリーのインパクトが強すぎて、皮肉のことに、DVDを通じて「メディアの問題」を理解したと書いて学生の多くは、ムーアの言い分を鵜呑みにしていたようです。

次回の講義で、前回あまりよく伝わらなかった内容を改めて説明してから、ムーアのドキュメンタリーの中のカナダに関する部分を引き合いにしながら、メディアとの付き合い方について考えていきたいと思います。