学生から次のメールをもらいました。
外人という言葉は私たち日本人からみて異なる容姿をしている人達のことを一つの概念からみての呼称であり、私たちはその言葉に差別的な意味を決して含んではいないが、彼らからみると差別的な意味を含んでいるように捉えられてしまう。
「差別」という言葉を使っていますので、「差別」と講義で使っている「属性偏重」との関係について書きたいと思います。講義の中で「属性偏重」をキーワードにする理由の1つは「差別」より意味が明確な面があると思うからです。「差別」という言葉をよく耳にしますが、具体的に何が差別で、何が差別でないのかについて意外と総意がありません。「差別」は「悪い」という点についてはあまり異論はないと思いますが、具体的な問題になってくると「何が悪い」については意見が分かれることが多い。
属性偏重はより的を絞った概念だと思います。例えば「外人」の場合は「外国人」よりも「人種」を意識して使われることがあります。まさに学生が書いているように「日本人からみて異なる容姿」ですよね。「人種」や「容姿」は「国籍」と同じではありません。容姿では区別がつかないが、実は外国籍である場合もありますし、西洋人に見えても日本国籍の場合もあります。「属性偏重」という観点から「外人」について考える場合は、容姿にどの程度注目したいか、容姿はどの程度重要かについて考えることになると思います。「外人」が聞く人にとって不快かどうかだけではなく、容姿を重視するその概念を使用するかどうかは使用する人にとって大事な問題だと思います。言葉の問題の指摘を受けて、自分自身の頭の中にある概念を点検することは大事だと思います。口の動かし方や鳴り響く音そのものが重要ではありません。
さて、「外人」と「差別」との関係について二点を指摘したいと思います。
- 差別的な状況の中で「外人」という言葉が使われることが多い。
- 容姿を強く意識する概念を通して人を見ることが差別につながる恐れがある。
講義の中でこの二点についていろいろと解説しようと思っていますが、ここでは意味と使用法について大事な点を説明します。20世紀の前半に注目を浴びた哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「語の意味とは言語におけるその使用である」と主張しました。つまり、実際に言語の中で言葉がどう使われているかを見れば、その意味を確認することができます。個人的なレベルでは特定の発言の「真意」や「意図」について話し合うこともできますし、場合によっては語源についても考えなければなりませんが、一般的な「意味」は言葉の「使い方」が基本です。辞書に記録される「意味」は使い方に関する記録ですし、皆さんが知っているほとんどの言葉についても、使い方を知っているから「意味」がわかると言えます。そのような意味合いで、
Googleを使って、「外人」と「外国人」で検索してみることを勧めています。
最後に、学生のメールに「私たちは」という言葉がありましたが、「私たち」の使用について考える必要があると思います。もう一人の学生からは次のメールがありました。
「外人」という言葉について、私は気づいた時から「外国人」と言っていた気がします。親か学校の先生から言われたのかは自分でも全く覚えていないのですが、ずっと小さい頃から「外人」と言ってはダメ、「外人」ではない、「外国人」という考えが頭にありました。
「私たち」日本人と思っていても、意外とそう思っていない日本人もいるかもしれません。これも一種の「属性偏重」でしょう。