2006年11月10日金曜日

「差別」と「属性偏重」

学生から次のメールをもらいました。

外人という言葉は私たち日本人からみて異なる容姿をしている人達のことを一つの概念からみての呼称であり、私たちはその言葉に差別的な意味を決して含んではいないが、彼らからみると差別的な意味を含んでいるように捉えられてしまう。

「差別」という言葉を使っていますので、「差別」と講義で使っている「属性偏重」との関係について書きたいと思います。講義の中で「属性偏重」をキーワードにする理由の1つは「差別」より意味が明確な面があると思うからです。「差別」という言葉をよく耳にしますが、具体的に何が差別で、何が差別でないのかについて意外と総意がありません。「差別」は「悪い」という点についてはあまり異論はないと思いますが、具体的な問題になってくると「何が悪い」については意見が分かれることが多い。

属性偏重はより的を絞った概念だと思います。例えば「外人」の場合は「外国人」よりも「人種」を意識して使われることがあります。まさに学生が書いているように「日本人からみて異なる容姿」ですよね。「人種」や「容姿」は「国籍」と同じではありません。容姿では区別がつかないが、実は外国籍である場合もありますし、西洋人に見えても日本国籍の場合もあります。「属性偏重」という観点から「外人」について考える場合は、容姿にどの程度注目したいか、容姿はどの程度重要かについて考えることになると思います。「外人」が聞く人にとって不快かどうかだけではなく、容姿を重視するその概念を使用するかどうかは使用する人にとって大事な問題だと思います。言葉の問題の指摘を受けて、自分自身の頭の中にある概念を点検することは大事だと思います。口の動かし方や鳴り響く音そのものが重要ではありません。

さて、「外人」と「差別」との関係について二点を指摘したいと思います。

  1. 差別的な状況の中で「外人」という言葉が使われることが多い。


  2. 容姿を強く意識する概念を通して人を見ることが差別につながる恐れがある。

講義の中でこの二点についていろいろと解説しようと思っていますが、ここでは意味と使用法について大事な点を説明します。20世紀の前半に注目を浴びた哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「語の意味とは言語におけるその使用である」と主張しました。つまり、実際に言語の中で言葉がどう使われているかを見れば、その意味を確認することができます。個人的なレベルでは特定の発言の「真意」や「意図」について話し合うこともできますし、場合によっては語源についても考えなければなりませんが、一般的な「意味」は言葉の「使い方」が基本です。辞書に記録される「意味」は使い方に関する記録ですし、皆さんが知っているほとんどの言葉についても、使い方を知っているから「意味」がわかると言えます。そのような意味合いで、Googleを使って、「外人」と「外国人」で検索してみることを勧めています。

最後に、学生のメールに「私たちは」という言葉がありましたが、「私たち」の使用について考える必要があると思います。もう一人の学生からは次のメールがありました。

「外人」という言葉について、私は気づいた時から「外国人」と言っていた気がします。親か学校の先生から言われたのかは自分でも全く覚えていないのですが、ずっと小さい頃から「外人」と言ってはダメ、「外人」ではない、「外国人」という考えが頭にありました。

「私たち」日本人と思っていても、意外とそう思っていない日本人もいるかもしれません。これも一種の「属性偏重」でしょう。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私も上記の文のように幼いころから「外人」という言葉を使っていました。それは誰から教えてもらったわけでもなく自然に習得したように思います。私は、この授業でこの問題が取り上げられて初めて「外人」という言葉にはある「属性偏重」的なものが含まれていることを知りました。なので最初授業のなかのビデオでもあったように、どうしてそんなに「外人」という言葉をマイナスの意味で捉えるのだろうかと疑問に思い、大げさではないだろうかという思いも正直ありました。日本人が捉える「外人」という言葉の発想と、実際の受け手からする捉え方とでは大きな差があると思います。というのも、日本人特にアジア人は外国へ行っても「外人」と呼ばれることはあまりないでしょう。それは、「外人」という言葉が主に西欧人(白人)を指しているからです。ここで、私が考え直したことは、私自身「属性偏重」の意味はなく安易に「外人」という言葉を使っていました。その対象となるのはやはり白人の人たちでアジア人に対してはほとんど使っていなかったと思います。この時点で、私には差別意識がなくても自然に「属性偏重」という壁を作り人を区別しているのだなと思いました。
今回の授業でも取り上げられた温泉問題のように世の中には「属性偏重」的なものが沢山存在すると思います。簡単な例を挙げれば日本人はいまだに韓国人のことを「朝鮮人」と呼んだりします。私が一番疑問に思い最近驚いたことは国際空港で外国人つまりforeighnerをalien(エイリアン)と書かれていたことです。これについては、本来のきちんとした意味があるのかもしてませんが私の中では疑問のままです。皆さんはどう思いますか?

Kirk Masden さんのコメント...

コメント、ありがとうございました。返事が遅くなってすみまませんでした。

以前講義で言ったことの繰り返しになるかと思いますが、イラク戦争などで多くの人が死んでいっている世の中において、「外人」と「外国人」のニュアンスや使用法の違いは問題の程度が軽いですよね。そういう意味で多くの学生が「どうしてそんなに『外人』という言葉をマイナスの意味で捉えるのだろうか」という気持ちがよくわかります。ただ、1つの属性(人種)を強く意識すると、その意識自体が温泉問題に見られるような短絡的な対応につながることがあるということがポイントだと思います。何と言っても、人間の意識や物の見方が重要で、言葉を通してその意識を垣間見ることがあるから言われる側にとって気になるでしょう。

Foreignerとalienの違いについてはここで十分な説明ができませんが、1つだけ誤解がないように強調しておきたいと思います。「外人」の意味は日本語の中での使用法で形成されていますし、foreignerやalienの意味は英語の中での使用法で形成されています。「外人」という言葉が日本で問題になっていることは英語の言葉とは基本的に関係がないと思います。