2007年5月12日土曜日

銃社会の背景

4月19日の講義後にもらった複数の受講生からのメールの中に「そもそも銃の所有には何のメリットがあるか?」という疑問がありました。「どうしてアメリカで銃所持が許されているか?」のような問いに答えるなら、まず銃所持の権利を保障するアメリカ国憲法の修正第二条から説明しなければなりません。修正第二条は次のとおり:
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。

後半では銃所持の権利を明記しているだけですが、肝心な理由は前半に書いてあります:民兵が必要だから。ただ、これは現在のアメリカの現状では理解に苦しむ理由なんですね。現在のアメリカでは国家の安全を「民兵」のような素人集団に託している訳ではなく、異常なほどに発達したプロの軍隊が国家や「国家の利益」を守ることになっています。

憲法制定当時のアメリカには常備軍がなく、農民や町の市民で組織する「民兵」に頼っていたことが修正第二条の背景にあります。もう1つ重要なのは、常備軍がなかったというよりも、常備軍に対する不信感があって、むしろ市民で構成する民兵がいいと考えられていたということです。

常備軍に対する不信感は、建国の精神や理念とよく合致します。当時、軍であろうが、大統領やその側近であろうが、一カ所に力が集中してしまうことは民主主義を脅かすと考えていました。力が集中しやすい常備軍は民主主義国家にはふさわしくなく、それぞれの地方の民兵に頼る方が望ましいとの価値観が修正第二条の背後にあります。

簡単にまとめると修正第二条の趣旨は次のようになります:(常備軍を持たない我が国では)民兵が必要。民兵が機能するためには市民(国民)が武器を所有する必要があるから、政府が市民から武器を取り上げてしまうようなことがあってはならない。憲法に「常備軍を持たない我が国では」とは書いていませんが、常備軍がないことが修正第二条の前提になっています。

さて、修正第二条が制定された当時の趣旨はだいたい以上の通りですが、そもそも建国の父たちはなぜ常備軍より、民兵の方が望ましいと考えていたをもう少し説明する必要があるでしょう。今の世の中では「民兵」というと非常に古くさい、非現実的な感じがするように思います。建国の父たちは、素人集団の「民兵」がプロの常備軍よりいいと考えていたと聞いただけで多くの受講生にはぴんと来ないだろうと思います。そこで約170年後のアイゼンハワーの演説を取り上げることにしました。1961年の離任演説のなかで、アイゼンハワーは「軍産複合体」を警戒する必要があることを指摘しました。「軍産複合体」は「常備軍 + 軍需産業」のことですが、発想は建国の父たちと同じです。民主主義のなかでは、なんと言っても「民意」が重要ですが、軍や軍需産業が発達しすぎると、国の政策は「民意」ではなく「軍意」(軍産複合体に関わっている連中がやりたがっていること)で決まってしまう恐れがあるということです。

今までの経緯を大雑把にまとめると、建国の父たちは「常備軍は危ないから、民兵でいこう」と考え、1961年にアイゼンハワーは「民兵をやめて、常備軍にせざるを得なくなってきたけども、軍産複合体の影響力が増してきて、危なくなってきているよ」と警告して、そして今、アイゼンハワーが恐れたように、「軍産複合体」が国策決定へ過大な影響を及ぼした結果、毎日ニュースで見るイラクの惨事があります。

こうして考えると「常備軍ではなく、民兵で行こう」と考えた建国の父たちはなかなか賢かったかも知れないという気がしてきませんか?今の世の中では「民兵」は非現実的な感じがするかも知れませんが、授業で紹介したようにスイスはそれに近い形を堅持しています。しかも、銃は単なる「趣味」ではなく、市民が国を守る道具として、責任を持って家で保管するスイスでは銃による犯罪がアメリカよりずっと低い。

たいへん長くなりましたが、このエッセーを通じて言いたいことは、修正第二条の背後にはばかにできない思想と知恵があるということです。巨大な軍を持つ現在のアメリカでの銃所持の意味が変わってしまい、さまざまの問題が起きていますが、制定当初の思想(常備軍を持たずに、民兵で行こう)を堅持すれば、今のアメリカはずっとマシではないかと思います。

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