『民族という名の宗教』を読み終えました。全て読み、自分なりに考えてみたけれど、どうしてもわからないことがありましたのでメールしました。
P.137の柳田国男氏の言葉で、
「近代化する社会が捨てていくものを、今のうちに急いで拾い集めていかねばならぬ。さもないと完全に失われてしまう」という部分。
P.207のなだ氏の言葉で、
「社会主義国家は、今、われ先にと社会主義を放り出している。ぼくはそのときになってへそ曲がりから、人の捨てるものを拾ってみる気になった。そして、人をまとめる原理の中で社会主義が、抑制された人々、絶望した人々の心の中で、どのような位置を占めていたのか見てみようと思った。」
この2人の“拾っていくもの”というのは、この本の中で同じものを指しているのでしょうか。それとも別々のものを指しているのでしょうか。また、それが一体何を指しているのか、一体どのようなことなのか読み返してもわかりませんでした。
私からの返事:
同じという解釈も成り立つし、違うとも言えると思います。時代遅れとして捨てられていく習慣や考え方の価値を見直すという意味では同じですね。でも、なだ氏が「拾う」場合の価値観や発想が柳田国男氏の場合と違うだろうし、本の最後の方になだ氏が書いた社会主義を「拾う」内容につなげていくために柳田国男の言葉を移用した訳ではないだろうと思います。137ベージの内容も207ページの内容もなだ氏が本全体を通して言おうとしていたと関連があったと思いますが、「拾う」という表現がこと二カ所で使われていることはむしろ偶然かもしれません。
「拾う」ことの意味についてですが、柳田国男氏の場合、「拾っていた」のは日本のあっちこっちで廃れていく伝統のことでした。近代化でいろいろな伝統が途絶えた訳ですよね。例えば、近代的な工場で傘を作ることが普通になれば、伝統的な手法で作る蛇の目傘があまり売れなくなって、場合によってはその代々続いてきた伝統がなくなるようなことがあっても不思議ではないですよね。柳田国男氏が別に蛇の目傘のことを記録していた訳ではないだろうが、似たように近代的な慣行などとの競争に負けて、廃れていく、捨てられていく習慣、慣行などを記録していたと思います。
以上、十分な答えができたかどうかはわかりませんが、こういう質問が届いたのはうれしいことです。この学生は明日の試験でいい点が取れるだろうと思います。
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