2007年4月21日土曜日

文化の定義について

受講生の皆さんとのメールのやりとりや講義の準備で、いろいろと考えさせられています。ここで文化の定義について考えていることを説明してみたいと思います。やや長い文章にはなりますが、読んでくれれば講義のキーワードである「文化」に対する理解が深まるだろうと思いますので、是非、読み続けてください。

今まで話してきたように、講義で使っている文化の定義(ある程度共有された必然性のない当たり前)は私自身が考えたもので、講義の目標(いい人間関係を作っていく上で役に立つこと)と深い関係があります。改めてここで説明しますと、文化の定義の中心となるのは「当たり前」という言葉です。通常「当たり前」や「当然」とされることについては考える必要はありません。しかし、その「当たり前」とされていることには必然性がないなら、違う「当たり前」を持っている人間に出会っても不思議ではありません。その人間といい人間関係を作っていこうと思うなら、不毛な「当たり前」のぶつかり合いや摩擦を避けたいものですね。自分の「当たり前」には必然性がないかも知れないと、臨機応変に考え直してみる気持ちや思考的柔軟性があれば、摩擦を回避して、より良い人間関係が作られるだろうということです。そういうわけで自分の当たり前の「必然性のなさ」を認識することが重要です。

以上のように、授業における私の目標と文化の定義との間に重要な関係があるだけでなく、そもそも「必然性のない当たり前」という形で文化を定義してみたのは、目標を達成する上で都合がいいと思ったからです。文化人類学などにおいて定評のあるような文化の定義を講義で使用しないで、あえて自己流の定義を提示してきたのは、異文化理解(いい人間関係)の天敵である「固定観念」や「ステレオタイプ」(いずれも思考停止が特徴)の退治には有効だろうと考えたからです。今もその考え方には変わりはありませんが、最近アメリカにおける銃規制問題等について考えているうちに、「必然性のない当たり前」という定義の仕方の弱点が少し気になりました。

簡単にいうと、「必然性のない当たり前」は文化人類学で使われてきた定義より範囲が狭いという問題があります。よくよく考えてみれば、常識的に「文化」だと考えられてきたような事柄の中に、単なる「当たり前」と言えない慣習があります。例えば、箸は日本の食文化の一部であることについては異論はないだろうと思いますが、現代の日本人がナイフとフークにも慣れて、箸だけが「当たり前」ではないでしょう。文化とは「必然性のない当たり前」という定義にこだわるなら、ナイフとフークなど、別の食器を使うこともあり得ることが広く理解されているということで、もはや箸が「文化」でなくなった、という理屈が成り立ちます。私はもちろんそのような結論を意図している訳ではありませんが、自分の定義を厳密に解釈するとそういうことになってしまうという論理的な弱点があることを認めざるを得ません。

文化人類学という学問で有名な定義としてエドワード・タイラー(1832-1917)の次の定義があります。
「文化あるいは文明とは・・社会の成員としての人間(man)によって獲得された知識、信条、芸術、法、道徳、慣習や、他のいろいろな能力や気質(habits)を含む複雑な総体である」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/050228ty.html

この定義に対する批判がない訳ではありませんが、だいたい文化的な現象をほぼ網羅していると思います。また、「複雑な総体」という言葉で、文化的な現象は複雑に絡み合うことが多いことを教えてくれていると思います。私の文化の定義は網羅的なものでもなければ、文化的な現象の総体としての関係を意識させるものでもありません。ただ、タイラーの定義よりは思考停止の弊害を意識させるメリットがあるのではないかと考えています。

銃規制問題の授業と皆さんからのメールが、改めて文化の定義の仕方について考え込むきっかけになった理由を説明したいと思います。それは、今のアメリカの銃社会を理解するには文化的な背景等を理解する必要がありますが、銃所持が多くのアメリカ人には単なる「当たり前」と考えられている訳ではないということに気づいたからです。前回の授業で説明したように、アメリカ国内の世論が分かれています。銃社会の弊害に関する議論がいろいろあるので、多くのアメリカはある程度考えた上で自分の立場を決めています。銃社会に対する批判や抗議等がなければ、現状は多くの人にとって単なる「当たり前」ということになるでしょうが、社会の中で意見が対立している状況の中て規制賛成派も反対派も、自分の立場に対する批判を意識させられています。「アメリカ文化と銃社会」の全体像を理解するには「必然性のない当たり前」より、タイラーの定義にあるような「複雑な総体」という観点で考えると良いでしょう。

アメリカの銃社会の文化的な背景について、授業で考えてみたいと思います。以上説明したような理由で、単なる「当たり前」では片付けられない、より広い意味での文化的背景についても説明しなければなりません。しかし、これからも「必然性のない当たり前」という定義には「思考停止」と戦うためにはメリットがあると思っていますので、是非皆さんに覚えてもらい、その趣旨を理解していただきたいと思います。

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