2006年12月22日金曜日

学内私書箱

学内私書箱に先週の講義までのパワーポイントファイルを入れました。学内私書箱はキャンパスの外からのアクセスはできませんが、情報教育センター等で見られます。

学内私書箱にあるファイルはあくまでも私が講義で見せたスライドのみですので、講義を聞いていない場合は理解できないスライドも多いだろうと思います。例えば、学生からのメールの一部をスライドに入れ、講義の中でコメントをすることが多いのですが、パワーポイントのファイルには学生のコメントしかありませんので、講義それについて何を伝えようとしていたかを学内私書箱で確認できません。ただ、期末試験に向けておさらいする上で参考になるスライドもあるだろうと思い、学内私書箱で公開しています。自分自身の講義メモやこのブログと合わせて見て復習するとよいだろうと思います。

2006年12月4日月曜日

アメリカビザ説明会

    日時: 12月8日(金)午後6時〜(1時間程度)
    場所: 本学図書館地下AVホール
これも最近案内しているイベントと同様に、出席して600字程度の感想文を書いてもらえれば、新聞の課題の代わりに受け付けることができます。

研究会:「東洋・アジア」概念の変化

講義のテーマと関連のある研究会が行われますので、お知らせします。
    日時: 2006年12月16日(土)14時〜
    場所: 1123LL(11号館2階・3LL)
    講師: 張 世眞(外国語学部特任講師)
    演題: 1950年代韓国における「東洋・アジア」概念の変化 — アメリカヘゲモニーの受容を中心に
出席したことを証明するような感想文(600字程度)を提出してくれれば、新聞記事の課題の代わりとして受け取ります。

2006年11月29日水曜日

講演会について

連絡が遅くなっていますが、明日(30日)講義のテーマと関連のある講演会が行われますので、お知らせします。
    講師: 大田 静男 (郷土史家)
    演題: 日本人であることの意義はあるのか?
    日時: 11月30日(木)2:40〜4:10
    場所: 12号館1222教室
これは「法と社会I」という講義のゲスト講義です。

出席したことを証明するような感想文(600字程度)を提出してくれれば、新聞記事の課題の代わりとして受け取ります。なお、新聞記事の課題についてはここをクリックしてください。

2006年11月24日金曜日

Affirmative Action

久しぶりの投稿です。遅くなってすみませんでした。18日の講義は主に受講者からのメールの紹介と私からのコメントでした。見せようと思っていたaffirmative actionに関するビデオを見せる時間がなくなりました。メールに偏った講義はあまり面白くなかっただろうと心配していましたが、何人から「多くの学生からのコメントを読むことができてよかった」などの趣旨のメールをもらって、少し安心しました。取り上げたメールの中には「練習問題」に対する答案もありました。問題と答案がよくかみ合うことが大事なことを、今回も強調しました。

さて、今日はaffirmative actionの話が中心でした。先日のアメリカの中間選挙においてミシガン州でaffirmative actionを禁止する住民投票が可決されたこともあって、取り上げました。affirmative actionとは日本では耳慣れない言葉だと思いますが、発想が日本にまったく入ってきていないという訳ではありません。日本のWikipediaの中に「積極的差別是正措置」という項目にあるように、日本では「ポジティブ・アクション」という名前で似た方針の差別是正があります。

講義では十分説明できませんでしたが、「属性偏重」との関係について少しだけ補足したいと思います。1つの属性のみで判断する、あるいは1つの属性を重視過ぎることを「属性偏重」と呼んでいますが、今日のビデオ関連でいうなら、筆記試験のみで進路を決めることは「属性偏重」とも言えます。講義ではより複眼的なアプローチを勧めていますが、非差別少数者であることなども視野に入れた「OA入試」的な発想がもっと複眼的な発想ですね。

2006年11月10日金曜日

「差別」と「属性偏重」

学生から次のメールをもらいました。

外人という言葉は私たち日本人からみて異なる容姿をしている人達のことを一つの概念からみての呼称であり、私たちはその言葉に差別的な意味を決して含んではいないが、彼らからみると差別的な意味を含んでいるように捉えられてしまう。

「差別」という言葉を使っていますので、「差別」と講義で使っている「属性偏重」との関係について書きたいと思います。講義の中で「属性偏重」をキーワードにする理由の1つは「差別」より意味が明確な面があると思うからです。「差別」という言葉をよく耳にしますが、具体的に何が差別で、何が差別でないのかについて意外と総意がありません。「差別」は「悪い」という点についてはあまり異論はないと思いますが、具体的な問題になってくると「何が悪い」については意見が分かれることが多い。

属性偏重はより的を絞った概念だと思います。例えば「外人」の場合は「外国人」よりも「人種」を意識して使われることがあります。まさに学生が書いているように「日本人からみて異なる容姿」ですよね。「人種」や「容姿」は「国籍」と同じではありません。容姿では区別がつかないが、実は外国籍である場合もありますし、西洋人に見えても日本国籍の場合もあります。「属性偏重」という観点から「外人」について考える場合は、容姿にどの程度注目したいか、容姿はどの程度重要かについて考えることになると思います。「外人」が聞く人にとって不快かどうかだけではなく、容姿を重視するその概念を使用するかどうかは使用する人にとって大事な問題だと思います。言葉の問題の指摘を受けて、自分自身の頭の中にある概念を点検することは大事だと思います。口の動かし方や鳴り響く音そのものが重要ではありません。

さて、「外人」と「差別」との関係について二点を指摘したいと思います。

  1. 差別的な状況の中で「外人」という言葉が使われることが多い。


  2. 容姿を強く意識する概念を通して人を見ることが差別につながる恐れがある。

講義の中でこの二点についていろいろと解説しようと思っていますが、ここでは意味と使用法について大事な点を説明します。20世紀の前半に注目を浴びた哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「語の意味とは言語におけるその使用である」と主張しました。つまり、実際に言語の中で言葉がどう使われているかを見れば、その意味を確認することができます。個人的なレベルでは特定の発言の「真意」や「意図」について話し合うこともできますし、場合によっては語源についても考えなければなりませんが、一般的な「意味」は言葉の「使い方」が基本です。辞書に記録される「意味」は使い方に関する記録ですし、皆さんが知っているほとんどの言葉についても、使い方を知っているから「意味」がわかると言えます。そのような意味合いで、Googleを使って、「外人」と「外国人」で検索してみることを勧めています。

最後に、学生のメールに「私たちは」という言葉がありましたが、「私たち」の使用について考える必要があると思います。もう一人の学生からは次のメールがありました。

「外人」という言葉について、私は気づいた時から「外国人」と言っていた気がします。親か学校の先生から言われたのかは自分でも全く覚えていないのですが、ずっと小さい頃から「外人」と言ってはダメ、「外人」ではない、「外国人」という考えが頭にありました。

「私たち」日本人と思っていても、意外とそう思っていない日本人もいるかもしれません。これも一種の「属性偏重」でしょう。

2006年11月8日水曜日

テキストについて

シラバスを書いた段階で予定していたテキスト(姜信子著『ごく普通の在日韓国人』)が品切れとなったため、なだいなだ著の『民族という名の宗教—人をまとめる原理・排除する原理 』を秋学期のテキストにすることを講義の中で説明しました。先日、テキストが丸善に入荷したとの連絡を受けました。丸善によると、受講者と同じ冊数を入れると大幅に売れ残るので、受講者の約1/3にあたる120冊しか注文していません。早目に丸善で入手してください。後回しにするとテキストを入手できなくなるかも知れません。また、その結果、期末試験で合格点をとることができなくなる恐れがあります。

2006年10月28日土曜日

「外人」について

昨日の講義の直後に次のメールが届きました。

外人という言葉に日本人が無関心なのか外国人が意識し過ぎなのかは私には判断が出来ません。個人的には「外人」という言葉は端的にその人の属性をあらわす言葉だと思います。その中には差別の意識は含まれていません。しかし相手の立場に立って考えれば、また実際に使われている「外人」という言葉の意味を考えれば、使わないに越したことはないと思いました。


講義の中で、「外国人」と比べて、「外人」という言葉の方が、C.W.ニコルがビデオの中で言ったように、属性を強く意識している、と主張しました。また、私の話、あるいはニコル氏の話には納得できないと思えば、Googleで検索してみるといいと言いました。今、「外人」という言葉で検索してみると、ポルノのサイトが多く出てきます。「外国人」で検索するとポルノサイトがまったくと言っていいほど出てきません。「外人」では出てこない、外国人の就職、生活、権利などに関するサイトがたくさんでてきます。

これだけでは、属性を強く意識しているかどうかについてははっきりしないだろうと思いますが、「外人」は単に「外国人」の省略形でしかない、ということは言えないということは明確でしょう。「外人」の方が人種を指す場合に使われることが多いですね。このことはポルノサイトで「外人」が好んで使われることと深い関係があります。「外人」は「その人の属性をあらわす言葉だ」と言っても、その「属性」とはどのような属性でしょうか。「人種」(欧米人)なのか、「国籍」なのか、それとも「文化」なのでしょうか。

ニコル氏や私などが「外人」の使い方に過度な意識を感じる理由の1つには、「人種になぜこだわる必要があるのか」という違和感があるからです。入国審査の際に「外国人」という言葉が出てくるのもわかりますし、文化やルーツについて話す場合にも「外国人」の言葉が出てくることには違和感がありません。しかし、そもそも人種、身体の特徴、容姿などで人を分類しようとすることには違和感があります。ニコル氏いわく「どうしてそんなに意識しないといけないのか?」という疑問が出てきます。

引用した学生の「相手の立場に立つて」というのはよくわかりますが、講義で話したように、私やニコル氏が「外人」と呼ばれると少し不快感を覚えることだけがその言葉を使わない理由ではないと思います。その言葉を使いたくなるのは「外国人」という「概念」よりも「外人」という、人種的な側面を意識した概念で見ることを好んでいるのではないかと思います。問題は言葉ではなく、概念だと思います。

講義で「外人」という言葉の概念についてもう少し時間をかけて考えていきたいと思います。

メールと文化について

前回の「ポッドキャストについて」という投稿の中で、メールの中で講義の問題点等を指摘することは歓迎しますが、書き方について注意してほしいということを書きました。その後、気になっていたメールを書いた学生がメールをくれて、授業におけるポッドキャストの役割やメリットなどに関する疑問を表現しただけで、それ以上の意味はなかったことを教えてくれたので、ほっとしました。私から学生への返事の中で次のことを書きました。

就職活動をする際、あるいは就職してから年上の人とメールのやり取りをする際に「短いメールは要注意」と考えてもらえればいいように思います。問題提起や疑問を表現する場合は特にそうだと思います。数年前に、同僚と学生とのメールのやり取りについて話していたことを思い出します。その先生は学生に「メールに一筆を添えてね」と話していると言っていました。この背景に、世代により感覚の違い、世代間の文化的な違いだと思います。40代以上の世代はメールがない時代に育って、「手紙」の感覚が強いと思います。手紙は「拝啓」や「季節の言葉」から始り、本題を丁寧に説明してから最後に挨拶の言葉や「敬具」で終わるような書き方が常識の時代でした。この時代に育った人は、主なコミュニケーションの手段を紙の手紙からメールに代えていますが、まだ昔の「手紙」の常識が脳裏にあります。その世代の人にとって批判や問題提起、誤りの指摘がメールで、挨拶もなく、単刀直入に書かれていると、驚いたり、怒ったりすることがあります。
メールは世代的な「文化」や常識の違いに加えて、顔の表情等がないという問題点があるので、「送信」を押す前にメールを読み直して、「これは誤解を招くことはないかな」、「誤解を防ぐために、前置きを付け加えたり、表現を変えたりするような工夫はいらないかな」と考えるといいと思います。


実は、春学期にメールと必然性のない当たり前(文化)について話したいと思っていましたが、毎回伝えたい内容が多く、あまり話すことができませんでした。今年の春だったと思いますが、朝日新聞に若い世代のメール文化に関する記事がありました。私にとって、興味深かったのは、中学生か高校生の女の子の言葉でした。「絵文字のないメールは冷たく感じる」という趣旨でした。なるほど、私のように手紙の常識が頭にある世代にとっては、単刀直入のごく短いメールをもらって「何これ?」と思うことがあるように、私が書くような絵文字のないメールは、相手によっては違和感があるかも知れません。どっちが正しいという訳ではなく、常識の違い、文化の違いだと思います。双方ともできるだけ自分にとって「当たり前」のメールに関する考え方等が相手にとっては必然性がないということを意識して、誤解を与えないように、そして誤解しないように注意したいですね。

2006年10月27日金曜日

ポッドキャストについて

先週、最近始めたポッドキャストを紹介しました。そのテキストを読みたい場合はここをクリックしてください。詳しく知りたい人のためにいろいろなリンクを貼りました。

ポッドキャストの内容について次の学生からのコメントがありました。

 金曜日の講義では、イラク戦争の死者が、64万人と非常に多くなった事を、1部のメディアしか取り上げていなかったこととにより、必要な情報がメディアに出てこないときもあり、この辺に問題があるということがわかりました。つぎに、ポッドキャストを聞きました。ポッドキャストの中では、アメリカメディアについて取り上げられていました。コンゴ戦争という第二次世界大戦後最悪の死者をだのした戦争にもかかわらず、メディアに取り上げられることが非常に少なく、この戦争の事を知っている人が、非常に少なくなってしまっている事を知りました。ここでは、メディアの問題と、自分たちの問題という意識の低さが問題となっていることがわかりました。ポッドキャストは、先生の声が比較的スローだったので、ずっと聞いていたら眠くなってしまうかもしれません。


私が伝えようと思っていた趣旨をうまく要約できていると思います。

もう一人の学生さんから次のメールがありました。

ポッドキャストを使って伝える場合にはどういう利点があるのですか?あえてポッドキャストを授業で使ったのはなぜですか?


ある意味ではこのメールはよくわかります。内容は別にして講義の中でポッドキャストを使うのはあまりよくないだろうと、やってみて思いました。ただ、以上引用した文はメールのすべてです。問題点を指摘することは大事なことで歓迎ですが、伝え方についてはもう少し考えてほしいと思います。

さて、イラクでの死者数の話題の講義の流れの関係について少し書きたいと思います。「敵の顔」というビデオを通して文化論と戦争の関係について考えてきたつもりです。文化論はある意味では単なる観念や発想でしかありません。しかし、場合によって、そういう観念や発想は戦争や差別などのような行動につながります。先週と先々週のビデオでその結果がいかに悲惨なものになりうるかについて考えたつもりです。

これからは「ガイジン」など、問題視される言葉について話します。程度はともあれ、言葉と観念がつながっている以上、言葉と人間の行動に同様の関係があると思います。

2006年10月20日金曜日

学内私書箱

今日までのパワーポイントのスライドをすべて学内私書箱にアップロードをしました。学内私書箱の閲覧は学内のみとなっています。来週の講義で説明をしたいと思います。

Internet Explorerでの閲覧問題について

今日の講義で、Internet Explorerでこのブログを閲覧する場合には手動でUNICODEの文字コードを指定する必要があるといいましたが、ブログの文字コード設定をUNICODEから日本語のShift_JISに変えましたので、おそらくこれで問題が解決したのではないかと思います。

講義に対する疑問

学生から次のメールが届きました。

自分の国が戦争状態になっても戦わないと主張する人は、じゃあどうするの?って思います。もちろん自分だって戦いたくありませんが、戦わなければならない時もあるのでは無いでしょうか?私たちは日本という国という枠組みがあるからこそ、現在のような暮らしが出来ていると思います。そしてその中で家族や友達とあるいは幸せに暮らしているのでは無いでしょうか。今の日本が理由も無くこちらから戦争を仕掛けることは恐らく無いと思います。しかし、もし外国等から戦線布告されたらどうするんでしょうか。逃げる?平和をうったえる?どちらも(戦時下では)あまり意味があるとは思えません。確かに戦争は悲惨だと思います。出来るならしてはいけないと思います。実際に体験したわけではありませんが、想像くらいは出来ます。しかし、それでも「国のためには戦わない」というのは日本人としてのモラルに欠けると思います。あくまで自分の個人的な意見ですが、「私は国のためには戦わない」とは声高に主張することでは無いと思います。
ちなみに熊本の版画家(ハマダさん?)の人が言ってることはあまり共感出来ないです。詳しいことは割愛しますが、言ってることが矛盾してると思いました。


講義や講義で紹介したビデオに対して疑問を投げかけています。私の話などを含めて、鵜呑みにしないで、納得できない点は「納得できない」というのはとても必要なことだと思います。ありがとうございました。

この投稿を読んで感想や意見があれば、「コメント」をクリックして、書いてください。

2006年10月14日土曜日

メールの書き方の例

毎週、思慮深い、たいへんいいメールをいただいています。次のメールは中でも特にいいと思います。このような書き方の特徴の1つは感想だけでなく、講義に関するノートもきちんと書かれていることです。10月6日の講義に関するこのメールを13日の講義で紹介しようと思っていましたが、時間が足りなくなりましたのでここで紹介します。

  • 講義内容について

    • 先生が行かれたラスベガスでの話
    • ラスベガスのホテルでの冷房の温度について、文化の違いについてなどの話がありました
    • チョムスキーのビデオ関連の説明
    • 前回の授業で見たビデオがアイデンティティーの話とどのように関わっているのかということについての説明がありました。 
    • 「政策論と文化論」についての話
    • 文化論を出すことで、政策論から目をすらすことができること、「我々」と「彼ら」のように相手との違いを強調しているなどの話がありました。
    • ビデオ「Faces of the Enemy」

    • 前回行ったアイデンティティーの属性を表す表に関しての話
    • 「何々人」という属性が大きくするのではなく、色々な属性があって一人の人間と捉えることの必要性について話がありました。

  • 講義の感想

  •  「Faces of the Enemy」のビデオを見て、「必要なのは銃ではなく敵の概念」という言葉が印象に残りました。
    敵を人間ではなく害虫や動物としてイラストにすることが、人を人として扱わなり、そのような考えが人を殺しても罪の意識を感じなくさせてしまうということがよく分かりました。過去の戦争における虐殺もこのような考えに基づいて行われてしまったんだろうと思いました。殺人を犯した人が共産党主義者という敵がすべて悪いのであって自分は何も悪くないというような発言を聞いて、敵という概念が必要だという話がここによく表れていると思いました。 
     また、先生もおっしゃっていたようにアメリカ軍のプロパガンダの中で、日本兵のことをネガを焼き付けたように皆同じ顔をしているという発言が印象的でした。一人の人間として見るのではなく、皆同じものだとあのビデオを使って兵士たちに刷り込んであったように感じました。
      今回のビデオを見て、"何々人"など一つのアイデンティティーだけを見ることは危険な思い込みを生じさせてしまうことに繋がってしまうと思いました。一つのアイデンティティーがその人物のすべてであると考えずに、色々なアイデンティティーがあって一人の人間だということを私たちは忘れてはならないと思いました。

2006年10月12日木曜日

戦争と普通の人

メールの中に次のコメントがありました。
今日の文化論のような我々と彼らの違いを強調することにより争いは絶えないと私は思う。先生は戦争の状況での人の考え方を想像した事がありますか?私は戦争が本当に嫌いだけど状況次第では私も人を人として見れなくなってしまうのかが不安です。

私は次の返事を書きました。
私自身が想像したことがあるかについてですが、想像しようしていますが、経験が乏しいので、十分に想像できていないだろうと思います。ただ、なぜ普段ふつうに暮らしているひと、家族や友達に対して優しくしている人などが、戦争の中でひどいことができるようになることについて考えたり、想像しようとしたりすることはすこぐ重要なことだと思います。**さんは、「況次第では私も人を人として見れなくなってしまうのかが不安」と考えていることは、実は非常に健全なことではないかと思います。私たちと変わらない「普通の人」が戦争で人を殺したり、状況によっては人を差別したりすることが多いと思います。余裕のある状況ではそういうことをする必要がないし、しようとも思わないけども、心の準備などができていないと、状況次第で我々人間はそういう恐ろしいことができてしまう動物ではないかと思います。**さんのように「況次第では私も人を人として見れなくなってしまうのかが不安」と普段から考えていて、用心していれば、いざとなって「相手は『テロリスト』ではなく、人間だ」と思い出すことができるでしょう。しかし、逆に「私は悪いことをするような人ではない」と思い込み、用心していなければ、いざとなって思わず回りの雰囲気や自分自身の感情に動かされて、自分の行動の問題に気づいた段階ではもう遅い、というようなことがあるのではないかと思います。

属性偏重

一人の受講者から次の内容の入ったメールを受信しました。

前回、前々回の授業を受けたり、ブログの文章を読んだりして、感じたことは一言でいうと「属性偏重をするべきではない」というメッセージが込められているということでした。民族、人種だけでその人のアイデンティティを決めつけてしまうということは、その人の本質を否定することにつながります。1学期にやった人種、民族差別に関しても属性偏重が原因で引き起こされる場合が多いのではないでしょうか。

返信で私は次のことを書きました。

まったくその通りです。「属性偏重」という表現は昨日の講義では使いませんでしたが、内容はまさにそのことでした。

属性偏重は秋学期のキーワードの1つになりますので、講義を聞きながら「これは属性偏重とどういう関係があるか」について考えてもらえればいいと思います。

2006年10月7日土曜日

「敵の顔」関連のメール

6日の講義の時間に「敵の顔」というドキュメンタリーを見せました。あまりにも重い内容なので、受講者の中に拒絶反応を起こす人がいるのではないかと心配しましたが、今までのメールを見る限り、受講者の皆さんは内容をよく理解し、深く考えてくれていると思います。後日、そのメールの一部をここで紹介して、感想や意見を書きたいと思います。

メールを読むことは私にとって、たいへん有益です。鋭いコメントがいろいろあって、このプログ、あるいは次の講義で取り上げたい内容がたくさんあります。ただ、少し気になるのは講義の主なポイントを要約する人が少ないということです。ホームページにある「成績評定」のページでは次のように書いています。

講義においてメールに関して特別な説明がない場合は講義の趣旨や主な内容を自分なりに要約した上で、感想や質問等を付け加えてmasden@kumagaku.ac.jpへ送ってください。件名には「比較文化論」の文字を入れ、本文にはお名前の他に、学籍番号をアラビア数字で書いてください。このメールは皆さん一人一人のノートにもなりますので、必ず保存して、試験の前に読み直してください。


成績のことが気になるなら、上記のようなことを心がけるといいと思います。ただ、メールを書いてくれないよりは、その時々の感想だけでも書いてくれた方がいいです。どんどん送ってください。

2006年9月29日金曜日

「アイデンティティー」と「文明の衝突」

メールの中に「ビデオは難しかった」や「『アイデンティティー』との関連がよくわからなかった」などのようなコメントがあったので、ここで説明したいと思います。理解してもらえるようにと思い、説明が長くなりました。しかし、講義を理解する上で重要な概念の説明が含まれているので、ぜひ最後まで読んでください。

ビデオの中のチョムスキーは「中東でアメリカが憎まれるのはなぜか?」に対する2種類の答え方にについて話していました。1つは「アメリカの外交政策は中東の人々の利益や権利等を踏みにじってきたので、アメリカが嫌われている」という答え方。もう1つは「アメリカの価値観、すなわちアメリカの文化を誤解する人、あるいは受入れるができない人がアメリカを憎む」という答え方。チョムスキーが中東の問題を分析する際には前者(つまり、「踏みにじってきたから」)のような分析をしています。また、チョムスキーによると、2001年9月11日後のブッシュやアメリカのメディアの主な解説者は後者(つまり、「アメリカ文化が受入れられないから」)のような説明をしていました。

まず、「踏みにじったから嫌われている」という説明の仕方について若干の解説をしてから、「文化を受入れられないから嫌われている」という説明の仕方について書きます。

アメリカの外交政策がどのように中東の人々を「踏みにじった」かに関する詳しい説明ができませんので、興味のある人にチョムスキーの本を参考にしてもらいたいと思います。しかし、ごく簡単な例を挙げるとイラクのフセイン政権のことが挙げられます。イラク戦争でアメリカがイラクをサダム・フセインから救ったことになっているが、そもそもフセイン政権を支持することによって多くのイラク人を不幸にしたのアメリカです。象徴的な物的証拠として、1983年にアメリカのDonald Rumsfeldがフセイン大統領と握手する写真があります。イラク戦争の口実の1つはフセインによるクルド人に対する化学兵器の使用でしたが、ラムズフェルドがフセインと握手するこの時点で、アメリカ政府はその使用に関する情報を持っていました。アメリカの利益を追求するためには、ある時は化学兵器を使用する独裁者を支持して、ある時は同じ独裁者がいることを口実にその国に対する軍事攻撃を行うようなアメリカ政策は、当然、中東でかなり反感を買っています。

「テロリストなどはアメリカの文化を受入れられないからアメリカを嫌われている」という説明の仕方についてですが、9月11日のテロの直後にアメリカのメディアでこうした説明が多かったです。経済的に発展しているアメリカに対する「嫉妬」だとか、古い価値観を守ろうとする人々にとってアメリカの「自由」が脅威に感じられるなどのような説明の仕方でした。9月11日のテロより10年以上前から話題になっているサミュエル・ハンチントン氏の「文明の衝突」論もイスラムの世界とアメリカとの相克の主な原因が文化的な違いによると分析していました。

宗教等の違いが多少の摩擦の原因となっていることは事実です。しかし、文化的なことがらだけで中東の人々のアメリカに対するいらだちや憎悪を説明しようとすることには、重大な問題があります。すなわち、上で説明した「踏みにじったから」という説明に目を向けなくなる可能性があります。実際、アメリカの為政者にとって「踏みにじったから」という説明は、事実かどうかはともかくとして、非常に都合の悪い説明です。テロの後に、歴史的な背景やアメリカ政策の問題点を原意の1つであるということは「実は、彼らが我々を嫌うことには正当な理由がある」と言っているように聞こえ、このようなことを言う政治家はほとんどいませんでした。ましてや、今までの政策を反省するどころか、むしろもっと強行にアメリカ政府の方針を一方的に他の国に押し付けようとしているブッシュ政権からこういう説明をするはずがありません。

「踏みにじったから」と説明されると非常に都合が悪いのとは裏腹に、積極的な敵との戦いをアメリカ国民に売りつけようとするブッシュ政権にとっては、敵は「民主主義」や「自由」などのアメリカの根本的な価値や思想を打ち砕こうとしているというような説明は、非常に都合がいい説明です。ただ、「我々の自由や民主主義を嫌っている」という説明は、具体的な政策論とは縁がなく、きわめて漠然とした文化的な説明であることを忘れてはなりません。皮肉なことに、歴史を振り替えてみると、中東で一番嫌われてきたアメリカ政策は民主主義や自己決定権を支持するようなものではなく、むしろ民主的に選ばれた指導者をクーデターで追い出し、代わりに独裁者に国を支配させてきたようなことに対する怒りがあります。例えば、民主的に選ばれてイランの首相になったモサデクは、石油業界を国営化しようとしたので、1953年にイギリスとアメリカの操作でクーデターが行われ、モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝(シャーハンシャー)による独裁政治が始まりました。この独裁政治に対する怒りは1979年のイラン革命で爆発しました。

このように、今までの歴史を調べられば、アメリカの一方的な外交政策が中東の人々の反感を買っているという説明がもっともわかりやすく、裏付けが豊富です。「文化」などについて考えなくとも、残酷な独裁者に支配されたり、資源を奪われたりするなどのようなことを好む人はいないので、アメリカ人であろうが、日本人であろうが、少し想像を生かして、自分が同じ立場であればどう思うかについて考えてみれば、十分に中東の人々の怒りを理解することができるはずです。それに比べられば、その怒りを「文化的な違い」や「文明の衝突」として説明することは困難ですが、アメリカではもちろんのこと、日本のようにアメリカを支援する先進国でも、多くの政治家や評論家が歴史的な問題に目をつぶって、一生懸命に文化的原因を説明しようとしました。その方がアメリカ政策の続行に都合がいいからです。

さて、このことと講義で説明した「アイデンティティー」の概念との関係について説明します。授業中に「アイデンティティー」を「自分はだれか」や「相手はだけか」に関する概念だと説明しました。また、強く意識する属性を大きく書いて、それほど意識しない属性を小さく書くことによって、「アイデンティティー」を図にすることができることも説明しました。中東の人々のアメリカに対するいらだちや憎悪を「文化」あるいは「文明の衝突」として理解しようとすることは、彼らの「イスラム教徒」や「アラブ人」などの属性を強く意識すること、あるいは意識させることです。極端にこれらの属性を意識してしまうと、自分自身と共通の属性、つまり「外部の人によつて支配されたくない」や「殺されたくない」、「資源を奪われたくない」が見えなくなります。これは「文明の衝突」論の最大の問題点です。

以上が「アイデンティティー」の概念と、チョムスキーの話の関係です。

最後に一言。講義では、1つの属性にこだわりすぎることを「属性偏重」と呼ぶ、と言いました。以上のチョムスキーの議論や「文明の衝突」の概念などに関する説明を言い換えるなら、「文明の衝突」としてイスラム世界とアメリカとの摩擦のすべてを説明しようとすることは「属性偏重」となります。つまり、「イスラム教徒」等の属性を意識しすぎて、「踏みにじられるの嫌い」という、本人にとってとても重要なところには目がいかなくなります。今学期、同様の、さまざまな形の「属性偏重」を説明していきます。講義での「アイデンティティー」の説明と「属性偏重」の概念との関係に留意しながらこれからの講義を聞いてもらいたいと思います。

2006年9月23日土曜日

よいメールの例

最初の講義から24時間程度しか経っていませんが、すでにとても良いメールをいろいろもらっています。どのメールもある意味では良いのですが、ここで紹介する2通のメールは講義や「成績評定」でお願いしているように、講義の趣旨をよく要約してくれていると思います。メールをまったく送ってくれない場合と比べて、簡単な感想を定期的に送ってくれる方がいいのですが、やはり一番いいのは下に引用している例のような詳しいメールです。このようなメールをまとめることは、書く学生にとっては講義内容を自分なりに整理する機会になるでしょうし、読む私にとって、私が講義を通じて伝えようとしていたことが伝わったかどうかがよくわかります。

さて、最初のメールの例ですが、理解できた講義の趣旨を要約した上で、講義内容とビデオとの関係についてよくわからなかったと書いています。このように、理解できたことだけでなく、理解できなかったことや疑問に思ったところ、納得できなかったところも書いていただきたいと思います。

今日の講義では『アイデンティティ』について学びました。先生が話されたアイデンティティの定義は自分とは何なのか。相手は何なのか。という事とアイデンティティは属性の意識で決まるという事でした。
また属性の重要度、属性の意味、属性の重要度や意味をめぐる摩擦が起こるという話もされました。
今日の講義を聞いて私が思ったことは、アイデンティティという言葉自体馴染みがなく、定義を理解する事だけで精一杯だったということです。自分とは何なのか、相手は何なのかということについて考えた事がなく、すごく戸惑いました。
ただ先生がIDとはアイデンティティの略であるという話をされて少しだけですが分かった気がします。
あとビデオの内容をアイデンティティと結びつけて考える事も出来ませんでした。しかし、ビデオの内容を先生が講義のテーマにされている『自分と異なる文化を身につけている人と良い人間関係を作っていく上で役に立つ講義をする』という事には結びつけて考える事は出来ました。

ビデオの内容をアイデンティティとの関係については、講義では十分な説明ができていませんでした。講義やこのブログで改めて説明します。

次のメールは詳しく書かれている点、そして理解がいい点がいいと思います。

 今日の講義では、先生の夏休みの中国の話が最初にありました。その中では中国の人々が小泉首相の靖国参拝をしたときに反発や反日運動はあまりなかったことや中国の料理がおいしかったこと、中国のお店の「いらっしゃいませ」という言葉が「ニイハオ」という言葉であることつまり普段よく知っている人と交わす言葉を使っているなど文化の違いがあったという内容の話でした。
 また、アイデンティーとは何かという話もありました。アイデンティティーとは自分が何者で相手は何者か?ということでした。アイデンティティーには、(アメリカ人とか中国人)といった固定観念からくる「属性をめぐる摩擦」とある属性(女性や男性)などを過度に重視する属性偏重からくる「属性の重要度をめぐる摩擦」といった摩擦があり、こういった摩擦がよくおきるというものでした。今日の講義でみたビデオは、アメリカで起きた9・11テロが起きた後にアメリカ人はなぜイスラムの人々に嫌われているのかをテーマにしたビデオでした。ここでは、アメリカと比較的友好関係を築いているイスラムの人々の中にもアメリカのイスラムの国々に対する石油の利権をめぐる政策がアメリカ自身を有利なものとする政策であるからアメリカを支持しないという人たちがかなりいるということでした。私は、アメリカの国が行っている政策のためにイスラムの人々がアメリカの人々すべてを嫌っているというのはすごく危険なことだと思いました。アメリカの人々がどういう人かということはその国が行っている政策だけで判断するのではなく実際にはアメリカにもさまざまな人がいることを考慮にいれることが必要だと思いました。

HP更新

22日の講義の中で講義のウェブサイトの中の一部の内容を紹介しました。既に新しい内容をアップロードしていたつもりでしたが、さきほど見てみたら、なぜか更新がうまくできていませんでした。今、更新しましたので、見てほしいと思います。特に、「成績評定」を注意深く読んでほしいと思います。

2006年9月22日金曜日

秋学期で再出発

このブロッグを2006年の春学期前に作成しましたが、十分活用できませんでした。秋学期からはできるだけ毎週学生からのメールを匿名で引用して、コメントや解説などを書きたいと思います。時々のぞいてもらい、コメントや質問等を書き込んでもらえれば幸いです。

2006年4月17日月曜日

愛国心について

先日、下記の内容のメールをいただきました。

今日先生が話された愛国心という言葉について興味があり、考えてることがあってメールしてみました。

日本において、愛国心、愛国主義という言葉を聞いて、肯定的なイメージをもてる人はごくまれだと思います。やはりそれは戦争の反省からの部分が原因として大きいと思います。しかし私は愛国心というものはどこかの国民である以上、多少なりとも必要なものだと思っています。国が窮地に立たされた時に、誰も国を守ろうとする人がいないというのは問題だと思うからです。
この点日本が窮地にたった時に、日本の若者は日本のためになにかしようとする若者がいるのか…疑問です。
愛国心がないというのは日本の悪い点の一つだと私は考えています。

また、日本人の愛国心の欠如の原因の一つに宗教の問題があるのではないかと思います。私はよく、「欧米の人々は思想の根底にキリスト教があり、その思想によって国や家族を守ろうとする。」という話を聞きます。それに対して日本人は慣習的に宗教的行為をしている人は別として、ある特定の宗教を信じている人は少ないようです。つまり、日本人が宗教的な思想をもとに行動することは少ないと考えられます。どうすれば日本人が自分の国のために何かしようとするか、問題だと思います。

ありがとうございました。よく考えられた意見だと思います。いくつか言いたいことがありますが、講義の時間に言いたいと思います。他の受講生にここでコメントをしてもらえれば幸いです。

2006年4月15日土曜日

メール

たくさんの受講者からメールが届いています。ありがとうございます。そのほとんどのメールに対して何らかの返事(場合によっては「受信しました」程度ですが)を書いています。しかし、今朝私のパソコン上のトラブルでメールの「受信箱」が壊れて、水曜日のバックアップ以後の「受信箱」の中身がなくなりました。私からの返事をもらっている場合は、送ってくれたメールの記録が私の「送信箱」にあるので大丈夫ですが、私からの返事が届いていない場合はすみませんが改めて送ってください。

ちなみにまだ途中までしか読んでいませんが、皆さんからのメールの中に次回の講義で取り上げたい中身がたくさんあります。メールでやり取りをするのは講義内容を充実させる上でたいへんいい方法だと思っています。今回の問題で懲りずに、今後ともメールを送ってください。

2006年4月14日金曜日

このブログについて

ここで熊本学園大学で私が担当する「比較文化論」の講義に関する意見交換などをしたいと思います。受講生の皆さんに感想などを投稿してもらえれば幸いです。